長島・越前一揆殲滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 02:12 UTC 版)
天正元年、信長は朝倉義景と浅井長政を相次いで滅ぼし、義景の領国であった越前には義景の元家臣前波吉継を守護代に任じて統治させた。しかし、吉継は粗暴な振る舞いが多くなり、翌年の1月に富田長繁ら国人領主と結んだ一向一揆によって殺された。さらに一向一揆と結んだ国人領主も次々と一揆により織田方の役人を排斥し、越前は加賀一向一揆と同じく一向一揆のもちたる国となった(越前一向一揆)。これにより、信長はせっかく得た越前を一向宗に奪われることになった。 これを知った顕如は、はじめ七里頼周を派遣し、その後下間頼照を越前守護に任じた。こうして本願寺と信長の和議は決裂し、4月2日に石山本願寺は織田家に対し再挙兵した。 本願寺は長島・越前・石山の3拠点で信長と戦っていたが、それぞれが政治的に半ば独立しているという弱点があった。信長はそれを最大限に活用して各個撃破にでた。7月、信長は大動員令を発して長島を陸上・海上から包囲し、散発的に攻撃を加えるとともに補給路を封鎖して兵糧攻めにした。長島・屋長島・中江の3個所に篭った一揆勢はこれに耐え切れず、9月29日には降伏開城した。しかし、信長はこれを許さず長島から出る者を根切に処した。この時、降伏を許されなかった長島の一揆勢から捨て身の反撃を受けたため、残る屋長島・中江の2個所は柵で囲んで一揆勢を焼き殺した。指導者であった願証寺の顕忍(佐堯)は自害した。 この時の戦いの様子については「高屋城の戦い」を参照 天正3年(1575年)には、信長は本願寺と結託した高屋城主三好康長を降伏させ、甲斐・信濃の武田勝頼を長篠の戦いで破り、兵を十分に休めた後で動員令を発し、8月12日に越前に向けて進発した。一方越前では、下間頼照ら本願寺から派遣された坊官らが重税を課した事などにより、越前で一揆をおこした民衆との関係は悪化し、坊官の専横に反発し一揆が起こるという一揆内一揆まで起きた。 こうした一向宗内部の混乱に乗じ織田軍は連戦連勝で瞬く間に越前を制圧し、さらに加賀の南部まで攻め込んだ。9月には信長は北の庄に戻り、さらに岐阜へと戻って石山を牽制した。 本願寺3拠点の2つが撃破され、特に長島では徹底的な根切を行ったことを知った石山本願寺は、顕如が信長に対して自らの行為を詫び、さらに条書と誓紙を納めることで信長と再度和議を結んだ。しかし、前回の和議とは異なり、信長が「今後の対応を見て赦免するかを決める」とするなど、著しく信長に有利な状態での和議となった(実際には信長はまだ上杉・武田・毛利に挟まれており、信長にとっても和議は軍事上悪い話ではなかった)。 一方で中国地方ではこの年に毛利氏は織田方へと寝返った備中の三村氏を備中兵乱で滅ぼし、備前と美作でも宇喜多直家と同盟して天神山城の戦いを後援し浦上宗景・三浦貞広を失領させ、大きく東へと勢力圏を拡大した。これによって毛利氏の軍勢は陸路で播磨まで侵攻する事が可能になり、海路でも瀬戸内海の制海権を確保して対織田を視野に入れた大坂の本願寺との連携が模索され始める。
※この「長島・越前一揆殲滅」の解説は、「石山合戦」の解説の一部です。
「長島・越前一揆殲滅」を含む「石山合戦」の記事については、「石山合戦」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から長島・越前一揆殲滅を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。
全ての辞書から長島・越前一揆殲滅を検索
- 長島・越前一揆殲滅のページへのリンク