長島愛生園、邑久光明園において
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1933年(昭和8年)12月、国立療養所長島愛生園に移動し、園長光田健輔の指導を受けた。動脈性のらいの変化を研究したという 。1938年(昭和13年)同じ島で、外島保養院の再建として設立された国立療養所邑久光明園の園長を拝命した。患者が亡くなるとせっせと病理解剖をしていた。内科の仕事だけでなく、眼科の診療も行い、また、後に戦死した眼科医保田耕も彼の下に勤務した。1942年(昭和17年)らいの佝僂病性体質論の小笠原登説に対抗して学会で発言している。戦争、戦後も通じて与えられた仕事を忠実につとめた。当時、入所者や職員に、苦労・苦痛を与えたこともあろうが、患者から慕われた記録も残っている。邑久光明園での1942年(昭和17年)から1944年(昭和19年)の個人的日誌が残っていて、戦争中の苦労話が記載されている。1950年(昭和25年)に岡山で行われた第24回日本らい学会を主催している。1957年(昭和32年)8月10日、胃癌に脳出血を併発して永眠。享年65。
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