鎌原村の大被害
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 06:22 UTC 版)
被害が最も甚大だったのは、当時宿場町として栄えていた(浅間山北麓の)上野国吾妻郡鎌原村(現在の群馬県嬬恋村鎌原地区にあたる)であり、火砕流や土石雪崩等の直撃を受けて埋没し、村の人口570人のうち83.7%にあたる477人が死亡した。この時の生存者93人は、高所の鎌原観音堂に避難していた住民らであった。これに加えて、93軒の家屋が破壊され、馬は200頭のうち170頭が死亡したとされる。村の耕地の95%以上が荒廃した。 鎌原村を直撃した鎌原火砕流は、天明大噴火で発生した火砕流のうち最大の規模・破壊力を持つものであった。その流下量は約1億m3であったと推定されている。 埋没した鎌原村は後に、イタリアのヴェスヴィオ山噴火遺跡になぞらえて日本のポンペイ とも呼ばれるようになった。1979年から行われたこの地域の考古学的発掘調査によって、鎌原観音堂の埋没した石段の最下部からは2体の女性の白骨遺体が発見された。災害発生時、この2人の女性のうち1人がもう1人を背負って避難しようとしていたが、間に合わずに土石流に巻き込まれて死亡したことがわかった。 なお、長らく溶岩流や火砕流が土砂移動の原因と考えられてきたが、「高温の熱泥流」ではなく「低温の乾燥粉体流」が災害の主要因であった可能性が高いことが、近年の調査によってわかった。鎌原村の地質調査の結果、天明3年の噴出物は全体の5%ほどしかないことが判明。また、1979年から嬬恋村によって行われた発掘調査では、3軒の民家を確認できたが、出土品に焦げたり燃えたりしたものが極めて少ないことから、常温の土石が主成分であることがわかっている。このため早川由紀夫らは「鎌原村を襲ったのは高温の火砕流ではなく低温の土砂の流れであった」としている。また、一部は溶岩が火口付近に堆積し溶結し再流動して流下した火砕成溶岩の一部であると考えられている。 今や鎌原村は日本の貴重な災害遺跡の1つであるため、鎌原遺跡として将来的な国史跡への指定が目指されている。
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