鋳造再開から天狗党の乱まで
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「那珂湊反射炉」の記事における「鋳造再開から天狗党の乱まで」の解説
文久2年12月(1863年1月 - 2月)、飛田与七が中心となって反射炉の稼働が再開した。最初は失敗したが、12月28日(2月16日)にカノン砲の鋳造に成功、文久3年3月7日(1863年4月24日)に幕府へ納めた。飛田は炉の底に鋳物砂を敷いて嵩上げする、溶解した鉄を鋳型に流すための丸太の樋(とい)を作るなど、反射炉に改良を行った。 順調な再開を迎えた反射炉であったが、元治元年2月(1864年3月 - 4月)のカノン砲数門の鋳込みを最後に、同年3月27日(5月2日)に天狗党(尊王攘夷派)が筑波山で挙兵し、天狗党の乱が開幕した。その波は8月16日(9月16日)に那珂湊に達し、2か月に及ぶ攻防戦の末、天狗党の乱最大の激戦地となった那珂湊は、民家、社寺、その他大半を失う大打撃を被った。この結果、反射炉の煙突は大破、水車場は焼失し、反射炉の歴史はこれにて閉じられた。天狗党を率いたのは、藤田東湖の四男・小四郎であり、皮肉にも父が建設に力を尽くした反射炉を息子が破壊する結果となった。反射炉に関わった人々の多くは尊王攘夷派であったので、自刃や獄死など無惨な死を遂げる者が多かった。大砲を江戸に届けに行っていて留守にしていた飛田も捕らえられ入牢したが、職人としての能力が認められて銭座での仕事を申し渡され、出獄した。しかし、反射炉を失ったショックが大きく、仕事は手に付かず、明治2年(1869年)に37歳の若さで亡くなった。 水戸藩が鋳造した鉄製大砲の数は、断片的な記録しか残っていないため、正確には分からない。28門以上という説もあるが、佐藤和賀子は多く見積もっても15門前後とし、両者の中間をとった約20門とする資料もある。いずれにせよ、鉄製大砲で先行していた佐賀藩や薩摩藩には、量的にも質的にも遠く及ばなかった。
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