鋳造再開から天狗党の乱までとは? わかりやすく解説

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鋳造再開から天狗党の乱まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/10 14:35 UTC 版)

那珂湊反射炉」の記事における「鋳造再開から天狗党の乱まで」の解説

文久2年12月1863年1月 - 2月)、飛田与七中心となって反射炉稼働再開した最初失敗したが、12月28日2月16日)にカノン砲鋳造成功文久3年3月7日1863年4月24日)に幕府納めた飛田は炉の底に鋳物砂敷いて嵩上げする、溶解した鋳型に流すための丸太(とい)を作るなど、反射炉改良行った順調な再開迎えた反射炉であったが、元治元年2月1864年3月 - 4月)のカノン砲数門の鋳込み最後に同年3月27日5月2日)に天狗党尊王攘夷派)が筑波山挙兵し天狗党の乱開幕した。その波は8月16日9月16日)に那珂湊達し、2か月に及ぶ攻防戦の末、天狗党の乱最大激戦地となった那珂湊は、民家社寺、その他大半を失う大打撃被った。この結果反射炉煙突大破水車場焼失し反射炉歴史はこれにて閉じられた。天狗党率いたのは、藤田東湖の四男・小四郎であり、皮肉にも父が建設に力を尽くした反射炉息子破壊する結果となった反射炉に関わった人々多く尊王攘夷派であったので、自刃獄死など無惨な死を遂げる者が多かった大砲江戸届け行っていて留守にしていた飛田捕らえられ入牢したが、職人としての能力認められ銭座での仕事申し渡され出獄した。しかし、反射炉失ったショック大きく仕事は手に付かず明治2年1869年)に37歳若さ亡くなった水戸藩鋳造した鉄製大砲の数は、断片的な記録し残っていないため、正確に分からない28門以上という説もあるが、佐藤和賀子は多く見積もって15門前後とし、両者中間をとった約20門とする資料もある。いずれにせよ鉄製大砲先行していた佐賀藩薩摩藩には、量的に質的に遠く及ばなかった。

※この「鋳造再開から天狗党の乱まで」の解説は、「那珂湊反射炉」の解説の一部です。
「鋳造再開から天狗党の乱まで」を含む「那珂湊反射炉」の記事については、「那珂湊反射炉」の概要を参照ください。

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