金色姫伝説とは? わかりやすく解説

金色姫伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/28 07:18 UTC 版)

蚕影神社」の記事における「金色姫伝説」の解説

天竺舞台が及ぶ壮大な伝説で、「日本一蚕影神社御神徳記」のほか、上垣守国享和2年1802年)に著した養蚕秘録」、伊藤智夫の「絹1 ものと人間の文化史」等の養蚕書に紹介がある。 概略 欽明天皇御代(539-571年)、北天竺の旧仲国の霖夷大王と光契夫人の間に金色皇后金色姫)という娘がいた。夫人は病で亡くなり、王は後妻となる后を迎えたが、后は金色姫を疎み、王の目盗んで、姫暗殺奸計巡らせた。 第一に獅子王というが巣食う師子吼山に捨てさせたが、獅子王金色姫を襲うことなく丁重に宮殿送り届けた第二に、、熊などが巣食う辺境鷹群山に捨てさせたが、鷹狩のために派遣され宮殿関係者発見した第三に、海眼山という不毛の孤島に流させたが、漂着した漁師保護された。第四に、清涼殿小庭埋めさせたが、約100日も経った頃、地中から光が差したので、王が掘らせたところ、金色姫やつれた姿で救い出された。事情知り、姫の行く末案じた王は作った靭(うつぼ)船に姫を乗せ、海に流した。この船は常陸国豊浦湊に漂着した豊浦湊に住む漁師権太夫夫婦が金色姫救い面倒を見たが、姫は空しく病に倒れた。ある夜、夫婦夢枕に姫が立ったので、唐櫃開いたところ、亡骸はなく無数の動いていた。金色姫が靭船で流れてきたことから、桑の葉与えたところ、喜んで食べ次第成長した。ある時、食べず、頭を上げてわなわなと震え出した夫婦が心配していると姫が再び夢枕に立ち、この休み継母から受けた受難表れだと告げた。「獅子の休、の休、船の休、庭の休を経て、靭船の中で繭を作ることを覚えた」という。姫が告げた通りしばらくして繭を作った夫婦筑波山の「影道(ほんどう仙人」(道仙人とも)に繭から綿糸紡ぐ技術教わった。さらに筑波飛来された欽明天皇皇女各谷姫に神衣を織る技術教わった。これが日本における養蚕機織始まりという。 養蚕機織を営んだ夫婦は、靭船が辿り着いた豊浦御殿建立金色姫中心に左右に富士筑波の神を祀った。 この金色姫が、同県大洗町に伝わる「虚船」伝説の中で船に乗っていた異国女性モデルになったではないか、という説もある。

※この「金色姫伝説」の解説は、「蚕影神社」の解説の一部です。
「金色姫伝説」を含む「蚕影神社」の記事については、「蚕影神社」の概要を参照ください。

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