金属供出と保存運動、そして溶解
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 00:11 UTC 版)
「忠犬ハチ公」の記事における「金属供出と保存運動、そして溶解」の解説
時同じくして、日中戦争から太平洋戦争にかけての国内情勢から金属物資の不足が深刻化し、1941年(昭和16年)に勅令で金属類回収令が施行。これによりハチ公像が金属供出されることが東京鉄道局より通達される。これを知った斎藤はハチ公像が金属供出される事を阻止する目的で抗議活動を起こした。その内容は安藤の制作したこの銅像の芸術性を訴えかけたり、さらには自らが同じ分量の銅を捻出する旨を伝えたりするなどしてまで、銅像の溶解を断固として退けようとしたという。 しかし、国内の様々な銅像や梵鐘、庶民の有する細々とした金属製品までが供出される中、渋谷駅前という目立つ場所にあるハチ公像が供出されないのでは他に示しがつかないため、1944年(昭和19年)10月に、戦争が終わるまで別所にて保管するという事で表向きは「撤去」という扱いで決着がついた。 同年10月12日、渋谷駅ではハチ公像に日本国旗のたすきをかけるなどの「出陣式」が行われた。「戦争が終わるまで別所にて保管する」となっていたハチ公像であったが、ポツダム宣言受諾を日本国民に伝える玉音放送の前日、1945年(昭和20年)8月14日に、鉄道省浜松工機部で溶解されてしまった。溶解されたハチ公像は機関車の部品となり、東海道線を走ることになる。 なお、2006年(平成18年)6月13日放送の開運!なんでも鑑定団にて、一般人出演者が初代忠犬ハチ公像の台座部分に使用された銘板を出品。鑑定士により本物と確認された。
※この「金属供出と保存運動、そして溶解」の解説は、「忠犬ハチ公」の解説の一部です。
「金属供出と保存運動、そして溶解」を含む「忠犬ハチ公」の記事については、「忠犬ハチ公」の概要を参照ください。
Weblioに収録されているすべての辞書から金属供出と保存運動、そして溶解を検索する場合は、下記のリンクをクリックしてください。

- 金属供出と保存運動、そして溶解のページへのリンク