重吉の長男・二男・三男の系統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 07:15 UTC 版)
「能見松平家」の記事における「重吉の長男・二男・三男の系統」の解説
『寛政譜』では、重吉の男子として4人が記されているが、長男の松平重利(庄左衛門)は永禄3年(1560年)に桶狭間の合戦の前哨戦(一説に丸根砦)において24歳で、二男の能見重茂(般若助、半弥助)は永禄元年(1558年)の寺部城攻めにおいて17歳で、いずれも戦死している。 重利の子・松平昌利は父の戦死後の出生で、叔父(重吉の四男)の松平重勝に後見が命じられた。昌利は一時清水姓を称したとされるが、『寛政譜』において能見松平家の嫡流として扱われているのは昌利の系統で、昌利の子の松平昌吉は徳川秀忠・家光に仕えて留守居番などを務め1630石を知行した。昌吉は相模国鎌倉郡和泉村(横浜市泉区和泉町)に宝心寺を建立して菩提寺としたほか、中之宮左馬神社を再興して祈願所としている。この家はその後分知を重ねており、『寛政譜』編纂時点では930石の旗本(当主は松平光福、御小姓組に列する)となっている。 重吉の三男・十平については事績が伝わらないが、十平の子で小沢姓を称した小沢忠重は徳川家康・秀忠に仕え、使番・目付・普請奉行などを歴任、1500石を知行した。この小沢家は忠重の時に一時改易(職務上の「僻事」による)、その子の重長の時に一時遠流(分知に端を発する兄弟間の争いによる)と浮沈を繰り返し、重長の孫にあたる小沢定員の代に不行跡によって改易された。庶流は存続している。
※この「重吉の長男・二男・三男の系統」の解説は、「能見松平家」の解説の一部です。
「重吉の長男・二男・三男の系統」を含む「能見松平家」の記事については、「能見松平家」の概要を参照ください。
- 重吉の長男・二男・三男の系統のページへのリンク