重吉の四男:重勝の系統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 07:15 UTC 版)
「能見松平家」の記事における「重吉の四男:重勝の系統」の解説
能見松平家のうち、大名家を出すなどの発展を見せたのは、松平重吉の四男・松平重勝の系統である。 重勝は16歳で大番頭を務め、長篠の戦いや長久手の戦いで功績を挙げたという。重勝は慶長17年(1612年)に松平忠輝に家老として付けられたが、忠輝改易後に徳川秀忠に召し返され、元和3年(1617年)に下総国関宿藩2万6000石の大名となった。次いで遠江国横須賀藩に移され、駿府城代を兼任した。 重勝の長男・松平重忠は、父が忠輝の付家老となった際、父に代わって秀忠に仕え大番頭を務めた。父の死後、家督を継ぐとともに出羽国上山藩4万石に加転封。重忠の弟3人は別家を立てており、うち松平重則(重勝の三男、上総国百首藩→下野国皆川藩)および松平勝隆(重勝の四男、上総国佐貫藩)が大名に列しているが、重則の系統は無嗣断絶、勝隆の系統は改易となっており(のち旗本として再興)、大名の地位は長く維持できなかった。 重忠には男子がなく、小笠原秀政(信濃国松本藩主)の四男・松平重直が婿養子として家を継ぎ、3万石を領した。重直はその後、摂津国三田藩から豊後国高田藩に移された。重直の子・松平英親は、正保2年(1645年)に豊後国杵築藩へ3万2千石で移され、以後能見松平家は杵築で定着した。松平親貴のときに幕末・明治維新を迎え、1884年に華族令が制定されると子爵に列せられた。
※この「重吉の四男:重勝の系統」の解説は、「能見松平家」の解説の一部です。
「重吉の四男:重勝の系統」を含む「能見松平家」の記事については、「能見松平家」の概要を参照ください。
- 重吉の四男:重勝の系統のページへのリンク