酒井次武
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酒井 次武 | |
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生誕 |
1923年2月9日![]() |
死没 | 2017年1月18日(93歳没) |
所属組織 |
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軍歴 |
1943 - 1945(日本陸軍) 1951 - 1952(予備隊) 1952 - 1954(保安隊) 1954 - 1978(陸自) |
最終階級 |
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指揮 | 第1師団長 |
酒井 次武(さかい つぐたけ)(1923年(大正12年)2月9日 - 2017年(平成29年)1月18日)は、日本の陸軍軍人、陸上自衛官。左衛門尉酒井家の有力支族酒井奥之助家出身。
略歴
東京生まれ。父は陸軍中将で日中戦争で戦死した酒井直次[1]。仙台陸軍幼年学校を経て[2]、陸軍士官学校(第56期)卒業。兵科は工兵[3]。終戦時は陸軍大尉[1]。戦後は東京大学(法学部)を中退し、会社勤務をしていたが、1951年(昭和26年)に陸上自衛隊の前身である警察予備隊に入隊[1]。職種は施設科であるが、情報畑を歩んだのち[1]、第8師団司令部幕僚長、札幌地方連絡部長、陸上幕僚監部施設課長、施設学校長兼勝田駐屯地司令を経て、1977年(昭和52年)7月に第1師団長に就任。1年余り勤務したのち、1978年(昭和53年)7月に退官。
年譜
- 1942年(昭和17年)12月17日:陸軍士官学校(56期)卒業
- 1943年(昭和18年)5月:陸軍少尉任官
- 1951年(昭和26年)12月:警察予備隊入隊(1等警察士)
- 1952年(昭和27年)10月15日:警察予備隊から保安隊に改編(1等保安士)
- 1954年(昭和29年)3月16日:3等保安正に任命[4]
- 1963年(昭和38年)8月1日:第7施設大隊長 兼 第7師団司令部施設課長
- 1966年(昭和41年)
- 1968年(昭和43年)3月16日:陸上幕僚監部第2部見積班長[7]
- 1970年(昭和45年)7月16日:第8師団司令部幕僚長[8]
- 1972年(昭和47年)3月16日:自衛隊札幌地方連絡部長[9]
- 1973年(昭和48年)
- 1976年(昭和51年)3月16日:陸将に昇任、陸上自衛隊施設学校長 兼 勝田駐屯地司令[12]
- 1977年(昭和52年)7月1日:第1師団長[13]
- 1978年(昭和53年)7月28日:退官[14]
- 1993年(平成 5年)4月29日:勲三等瑞宝章 叙勲[15]
- 2017年(平成29年)1月18日:逝去(享年93)。正七位から正四位に進階[16]
親族
脚注
- ^ a b c d 自衛隊の総点検(4)陸上幕僚監部 / 大竹政範「軍事研究」 1975年3月 P136~163 ジャパンミリタリー・レビュー
- ^ 足るを知る : 広田健児先生追慕 広田健児先生追悼文集刊行委員会 (1984)
- ^ 偕行 (264) 1973年6月
- ^ 『官報』昭和29年5月14日(本紙 第8206号)叙任及辞令
- ^ 『官報』昭和41年1月5日(本紙 第11717号)人事異動
- ^ 『官報』昭和41年7月18日(本紙 第11878号)人事異動
- ^ 『官報』昭和43年3月19日(本紙 第12376号)人事異動
- ^ 『官報』昭和45年7月17日(本紙 第13073号)人事異動
- ^ 『官報』昭和47年3月17日(本紙 第13569号)人事異動
- ^ 『官報』昭和48年3月19日(本紙 第13868号)人事異動
- ^ 『官報』昭和48年7月18日(本紙 第13968号)人事異動
- ^ 『官報』昭和51年3月17日(本紙 第14757号)人事異動
- ^ 『官報』昭和52年7月2日(本紙 第15142号)人事異動
- ^ 『官報』昭和53年7月29日(本紙 第15462号)人事異動
- ^ 『官報』平成5年4月30日(号外 第69号)叙位・叙勲
- ^ 『官報』平成29年2月24日(本紙 第6965号)叙位・叙勲
参考資料
- 『官報』1948年01月31日 号外 3 その他公告
- 『官報』1951年12月07日 号外 77 その他公告
固有名詞の分類
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