都落ち・水島の戦いとは? わかりやすく解説

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都落ち・水島の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:24 UTC 版)

平教経」の記事における「都落ち・水島の戦い」の解説

治承3年1179年)、能登守に任官。『玉葉』の養和元年1181年9月11日記事教経が行とともに北陸道追討副将軍として下向するとの伝聞がある(実際に教経北陸戦いには参戦していない)。 教経『平家物語』最初に登場するのは寿永2年1183年5月倶利伽羅峠の戦い篠原の戦い源義仲連敗した平家急ぎ京の守り固め場面で、兄の通盛とともに2000余騎を率いて宇治橋警護している。結局同年7月平家都落ちし、教経一門とともにこれに従った同年10月義仲讃岐国屋島平家本営攻略すべく足利義清代官総大将)とする軍を進発させ備中国水島渡海準備をさせた。平家方は大手正面)の平知盛重衡搦手通盛教経率い平氏軍迎撃出した迎撃出撃した教経らは「者ども北国奴ら生捕られては残念であろう、さあ味方の船を組め」と大音声をあげて、船をつなぎ合わせて板を渡して平坦にして馬とともに押し渡る戦法攻めかかり、教経先頭立って奮戦源氏方の侍大将海野幸広討ち取り、さらに足利義長戦死総大将足利義清は自ら船を沈めて自害した平家方は大勝した水島の戦い)。 水島敗戦という結果により義仲による平家追討頓挫。これらも含めて義仲各所信望失い後白河法皇とも対立して勢力失い離反相次いだ。のち寿永3年1184年正月鎌倉源頼朝派遣した範頼・義経によって滅ぼされた。

※この「都落ち・水島の戦い」の解説は、「平教経」の解説の一部です。
「都落ち・水島の戦い」を含む「平教経」の記事については、「平教経」の概要を参照ください。

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