都落ち・水島の戦い
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治承3年(1179年)、能登守に任官。『玉葉』の養和元年(1181年)9月11日の記事に教経が行盛とともに北陸道追討の副将軍として下向するとの伝聞がある(実際には教経は北陸の戦いには参戦していない)。 教経が『平家物語』に最初に登場するのは寿永2年(1183年)5月に倶利伽羅峠の戦い、篠原の戦いで源義仲に連敗した平家が急ぎ京の守りを固める場面で、兄の通盛とともに2000余騎を率いて宇治橋を警護している。結局、同年7月に平家は都落ちし、教経も一門とともにこれに従った。 同年閏10月、義仲は讃岐国屋島の平家の本営を攻略すべく足利義清を代官(総大将)とする軍を進発させ備中国水島で渡海の準備をさせた。平家方は大手(正面)の平知盛・重衡、搦手の通盛・教経ら率いる平氏軍を迎撃に出した。迎撃に出撃した教経らは「者ども、北国の奴ら生捕られては残念であろう、さあ味方の船を組め」と大音声をあげて、船をつなぎ合わせて板を渡して平坦にして馬とともに押し渡る戦法で攻めかかり、教経は先頭に立って奮戦、源氏方の侍大将の海野幸広を討ち取り、さらに足利義長も戦死、総大将の足利義清は自ら船を沈めて自害した。平家方は大勝した(水島の戦い)。 水島の敗戦という結果により義仲による平家追討は頓挫。これらも含めて義仲は各所の信望を失い、後白河法皇とも対立して勢力を失い、離反も相次いだ。のち寿永3年(1184年)正月に鎌倉の源頼朝が派遣した範頼・義経によって滅ぼされた。
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