都落ちとヨーロッパへの旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/19 15:41 UTC 版)
「レッグス・ダイアモンド」の記事における「都落ちとヨーロッパへの旅」の解説
ホッツィ・トッツィ騒動でニューヨークを留守にしている間に、密輸ライバルに縄張りを奪われ、マンハッタンから締め出された。ニューヨーク州北部のキャッツキルに拠点を移した。キャッツキルの小高い丘に要塞のような豪邸を構え、時折降りてきてオールバニーのケンモアホテルのバールームで遊んだ。当時の新聞は、「武装ギャングが市のハイウェイにやってきた。禁酒法の混乱とは縁遠い平和なキャッツキル住民は頭を抱えた」と報じた。 1930年8月、4人の部下とヨーロッパに船旅をした。フランス・ドイツ国境付近のアーヘンでドイツ警察に捕まり、ハンブルク経由でアメリカに送り返された。警察に旅行目的を聞かれ「病気療養のため」と答えたが、実際はスピークイージー用の酒の買付けだった。違う船で渡航した別の部下はレッグスが捕まったと知るや密輸計画を中止した。途中停泊したアイルランドの乗船者リストにレッグスと並んでルチアーノの名前があった。 1931年4月18日、グローバル・パークスというキャッツキルの輸送屋を、積み荷のビールの出所を知るために誘拐して締め上げた。辛くも逃げおおせたパークスが警察に密告したため逮捕された。同年.6月2日、キャッツキル近くのキングストンにあったレッグスの酒醸造所(Barmann Brewery)が警察の急襲により強制閉鎖された。 1931年8月13日、カンサスの連邦大陪審で密輸と醸造所所有の罪で4年刑の有罪判決を受けた。パークスを攻撃した件は襲撃の罪は却下されたが、誘拐の罪は保留とされ審理が続行された。
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