部民制と初期の五十戸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/13 06:52 UTC 版)
初期の五十戸の実態については、部民制との関係で見方が分かれており、そこには律令的な諸制度の形成期として孝徳天皇から天智天皇の時代を重視するか、天武天皇・持統天皇の時代を重視するかという広い学説上の対立が横たわっている。 五十戸木簡が発見された1970年代から、初期の五十戸が前の制度である部民制を元に作られ、部を単位にして編成されたとする学説が行われてきた。同じ部に属する人がまとまって属し、領域的にはまとまらず、分散と入り組みがある五十戸である。最古の五十戸が山部五十戸・白髪部五十戸という「部」がついた名であることがその根拠である。発掘でみつかる評の役所が後期のものばかりで、初期の評の機能が弱いと推測されることも傍証である。そこで、孝徳朝から天智朝の評・五十戸は部民制を引きずるものと考え、部民制を払拭したのは天武・持統朝、中でも重要な時点は天武天皇4年(675年)の部曲廃止とする。 しかし2002年に奈良県の石神遺跡で乙丑年(天智天皇4年・665年)の大山五十戸造と書かれた木簡が出ると、部民制の継承を否定する見方が強まってきた。後の律令制の里・郷は部民制の組織と関係したものではないが、郷・里の名には部がついたものとついていないもの両方がある。天智朝に「部」がついた五十戸しかないなら部民制とのつながりの論拠になるが、両方があるなら後代と同じだから、部民制の継承を表す証拠にはならない。部の名がその居住地の地名になり、地名が五十戸の名になったのかもしれない。また五十戸と人名が同時に見える木簡では、部の名を持つ五十戸の下にその部の人が属すという傾向が見られず、別の部の人が属していたり、地名の五十戸に部の姓を持つ人名が属す例が多々存在する。このようにみると、部民制的五十戸について積極的証拠として挙げられる材料はなくなってしまう。部民制の継承を否定する立場からは、初期の五十戸も後のものと同じで、旧来の部集団と関わりなく隣り合う戸をまとめて作った領域的制度であったことになる。
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