郡内における大工集団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 07:37 UTC 版)
「郡内大工仲間」の記事における「郡内における大工集団」の解説
甲斐国は大きく西側と東側に区分され、それぞれ国中(山梨郡、八代郡、巨摩郡)と郡内(都留郡)と通称される。 国中に於いては、河内の下山大工、甲府町方大工が存在しており、一方郡内は国中と比較して、古代から現代まで政治や文化に違いをもっており、大工集団も独自に形成された。 郡内の大工職達による太子講からはじまり、谷村藩時代には領内が13区の「細工場」に区分され、それぞれの区域を統率する細工場棟梁と、それをまとめる御役大工棟梁が存在し郡内大工仲間を組織していた。 郡内の大工職は、武田氏が滅亡し鳥居氏が郡内城主時代には関氏、小池氏、山内氏が御用大工となり、秋元氏城主時代には戸所氏、花田氏が活躍した。 萱沼氏は慶長5年(1600年)から幕末まで江戸時代を通じて記録が残る。 上吉田の山本氏、下吉田の萱沼氏、谷村の花田氏、鳥沢の大森氏などが数世代に渡り活躍したことが分かっている。 郡内大工仲間の社殿造営で最大の規模を持つものは北口本宮富士浅間神社であり、貞享5年(1688年)の現本殿造営から、享保18年(1733年)江戸の富士講村上派を率いる村上光清が私財を投じて出資し、境内の拡充が行われ、幣殿、拝殿、神楽殿、手水舎、隋神門と一連の社殿を造営した。棟梁は上吉田村山本市三郎、下吉田村萱沼弥左衛門、谷村範田幾右エ門(花田兵右衛門)、鹿留村相川長兵衛と棟札や墨書きが残されているが、どのような組織形態、誰がどの建物を担当して造営が行われたかは不明である。
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