郡内百姓の蜂起とは? わかりやすく解説

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郡内百姓の蜂起

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 03:06 UTC 版)

天保騒動」の記事における「郡内百姓の蜂起」の解説

天保7年8月17日1836年9月27日夜半谷村では下谷村近郷百姓による米穀商居宅への打ちこわし発生し騒動の発端となった谷村には石和代官所出張陣屋である谷村代官所が諸愛しているが、元締手代山内左内は不在で、石和陣屋から加判手代松岡啓次が出張し関係者処罰々への取締行い収拾される。 一方谷村での打ちこわし同時に都留郡下和田大月市七保町下和田)の武七(治左衛門)、同郡犬目上野原市犬目)の兵助は同郡鳥沢大月市)で合流すると、米価引き下げ求めた強訴計画し一揆勢の頭取となったまた、黒野田村大月市笹子町黒野田)の名主村医師の泰順たいじゅん)が綱領起草した。 武七は、天保7年当時70歳五人家族持高一石六斗であるが、徐々に減少し農閑余業行っていた。また、無宿人無頼の徒らを従える親分であったという。 兵助は、天保7年当時40歳。姓は水越で、3人家族犬目宿旅籠屋を営む。屋号は「水田屋」。水田屋の経営先代の代から悪化し兵助蜂起に際して妻に離縁状出している。なお、武七・兵助両名騒動後動向後述。 武七・兵助は「身分不相応之者」から貧民救済のため米・金を五カ年賦で借り受けて貸し付け国中熊野堂笛吹市春日井町熊野堂)・奥右衛門家に代表される国中富裕農民に米の買い占め停止され米穀郡内放出させる計画目論む。。熊野堂小河右衛門郡内米穀商う穀物商で、天保飢饉に際して米穀買い占め郡内では米価高騰元凶認識されていたという。 両名郡内百姓集結促し郡内勢を率いると山梨郡万力筋熊野堂の奥右衛門標的国中向けて出立し道中各地打ちこわし行い、奥右衛門宅の打ちこわしを行うと帰村した。

※この「郡内百姓の蜂起」の解説は、「天保騒動」の解説の一部です。
「郡内百姓の蜂起」を含む「天保騒動」の記事については、「天保騒動」の概要を参照ください。

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