郡内百姓の蜂起
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天保7年8月17日(1836年9月27日)夜半、谷村では下谷村近郷百姓による米穀商居宅への打ちこわしが発生し、騒動の発端となった。谷村には石和代官所の出張陣屋である谷村代官所が諸愛しているが、元締手代山内左内は不在で、石和陣屋から加判手代松岡啓次が出張し、関係者の処罰と村々への取締を行い収拾される。 一方、谷村での打ちこわしと同時に都留郡下和田村(大月市七保町下和田)の武七(治左衛門)、同郡犬目村(上野原市犬目)の兵助は同郡鳥沢村(大月市)で合流すると、米価引き下げを求めた強訴を計画し一揆勢の頭取となった。また、黒野田村(大月市笹子町黒野田)の名主・村医師の泰順(たいじゅん)が綱領を起草した。 武七は、天保7年当時70歳。五人家族で持高は一石六斗であるが、徐々に減少し農閑余業を行っていた。また、無宿人・無頼の徒らを従える親分であったという。 兵助は、天保7年当時40歳。姓は水越で、3人家族。犬目宿で旅籠屋を営む。屋号は「水田屋」。水田屋の経営は先代の代から悪化し、兵助は蜂起に際して妻に離縁状を出している。なお、武七・兵助両名の騒動後の動向は後述。 武七・兵助は「身分不相応之者」から貧民救済のため米・金を五カ年賦で借り受けて貸し付け、国中の熊野堂村(笛吹市春日井町熊野堂)・奥右衛門家に代表される国中富裕農民に米の買い占めを停止され米穀を郡内に放出させる計画を目論む。。熊野堂村の小河奥右衛門は郡内へ米穀を商う穀物商で、天保飢饉に際しては米穀を買い占め、郡内では米価高騰の元凶と認識されていたという。 両名は郡内百姓の集結を促し郡内勢を率いると山梨郡万力筋熊野堂村の奥右衛門を標的に国中へ向けて出立し、道中各地で打ちこわしを行い、奥右衛門宅の打ちこわしを行うと帰村した。
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