通信使と征韓論
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幕府の公式文書では、通信使には来貢使という用語は使われていないにも関わらず、民間では一方的な従属関係を示す来貢という言葉が広まった。通信使について当時の日本人は「朝鮮が日本に朝貢をしなければ将軍は再び朝鮮半島を侵攻するため、通信使は貢物を持って日本へ来る」という噂もしていた。李朝でも、そうした日本人の存在は知られていた。延享度の通信使の帰国報告では、幕府は諸侯に朝鮮入貢として知らせており、それまでの使節も知らぬふりをしていたと記されている。『朝鮮人来聘』や『朝鮮人来朝記』においても、三韓征伐や秀吉の朝鮮出兵を持ち出して朝鮮通信使を朝貢使節と見なしており、日本人が朝鮮通信使を朝貢使節団として捉えていたことがうかがえる。また、山鹿素行の『武家事紀』、本居宣長の『馭戒慨言』なども朝鮮通信使を朝貢使節とみなした。通信使の途絶は両国の財政難が理由だったが、通信使が途絶した際には朝貢を止めたと解釈する風潮が生じた。幕末には、清国広州の新聞に、とある日本人が寄稿した征韓論が掲載される八戸事件が起きる。こうした朝鮮観は、明治時代以降の日本の外交に影響を与えた。
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