退位・政治家へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:20 UTC 版)
「ノロドム・シハヌーク」の記事における「退位・政治家へ」の解説
独立運動を通じて自信を強めたシハヌークは1955年3月3日に退位し、父のノロドム・スラマリットが即位した。 退位後のシハヌークは「殿下」の称号で呼ばれた。立憲君主国であるがゆえに権限に法的制限のある王位を離れたことで、活動範囲に制約のなくなったシハヌークは同年4月7日、政治団体「社会主義人民共同体(サンクム・リアハ・ニヨム、通称サンクム)」を結成し、その総裁として更に政治へ取り組みを表明した。 サンクムは同年の総選挙で圧勝して国会の全議席を制し、いわば「シハヌーク翼賛体制」ともいえる政治環境の中でシハヌークは首相兼外務大臣に就任した。また、1960年4月に父王が崩御した後は王位を空位とし、母のシソワット・コサマック妃が王太后として国家の象徴となり、シハヌークは新設の「国家元首」に就任して政治指導にあたった。 シハヌークの政策は「王制社会主義」と称されたものであり、仏教の保護と君主制のもと、社会主義的な政策を打ち出していった。また、外交面ではアジア・アフリカ会議や非同盟諸国首脳会議に当初から参加して中立政策を守り、冷戦の続く中、東西両陣営から援助を引き出すことに成功するなど、隣国ベトナムやラオスが戦火に巻き込まれる中、国内は平和を維持していたが、政界では左派・右派の対立が絶えず、シハヌークが必要に応じて左派の重用と弾圧を繰り返したため、ポル・ポトやイエン・サリ、キュー・サムファンといった左派の指導者はジャングルに逃れ、武力闘争に走ることとなった。
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