近鉄・阪神時代
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近鉄移籍1年目、チームには絶対的な抑えとして赤堀元之やこの年1億円プレイヤーにもなったセットアッパーの佐野慈紀の存在がおり。この年投手コーチに新任した小林繁の勧めもあり先発転向となる。先発の駒不足もあり開幕二戦目に先発登板するなど期待はされたが、先発投手としてはスタミナがなく更にコントロールに苦しむ点は変わらず、1997年6月10日の対西武戦では先発で先頭打者から5者連続四球で1アウトも取れずに交代となる。 この時期、上記の巨人からのトレードのことや先発転向失敗をひきずり続けリリーフでも結果が出せず、石毛自身は「今の自分は自分じゃない」と思い続けていたという。2001年シーズンは25試合に登板しリーグ優勝に貢献するも、2002年シーズンは2試合の登板に終わり、10月2日に戦力外通告を受ける。 10月28日阪神タイガースにテスト入団。2003年は中継ぎのキーマンとして活躍。同年チームが優勝したことで、所属全球団で優勝を経験する。球速こそ若干落ちてはいたものの、本来適任だったリリーフにて往年のスタイルを彷彿とさせる投球を見せ、日本シリーズでも登板を果たすなど復活劇を見せる。日本シリーズに出場したことで石毛は平成の巨人と平成の阪神の両方で日本シリーズに参加した初めての選手となった。このように所属球団全てが優勝を経験しているため、マスコミから「石毛は優勝請負人である」と報じられたが、石毛はその報道に対し「自分は『優勝請負人』では畏れ多い、『優勝見届け人』ぐらいですよ」と話している。 2005年、昔故障した肘などの状態が悪化、看板としていた球威、キレが急速に衰えてしまう。本人は既に引退を決意していたところ、シーズン終了後の10月5日に戦力外通告を受け、同日に現役引退を表明する。
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