近代の藺牟田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 21:04 UTC 版)
1878年(明治11年)に郡区町村編制法が施行されたのに伴い、藺牟田村に戸長役場が設置されたが、長浜村の戸長役場に統合され、その後1883年(明治16年)に下甑島の全域を管轄する戸長役場が手打に置かれた。 1884年(明治17年)から翌年の1885年(明治18年)にかけて甑島列島の各村は台風が何度も襲来しコメなどの作物が大凶作となり、さらには藺牟田村で天然痘が流行し70名から80名の死者が出るなどの窮地に陥った。鹿児島県は藺牟田村の住民約2,000人以上を種子島、屋久島、高江村などに移住させる計画を立て、翌年1886年(明治19年)には移住が行われた。 1889年(明治22年)4月1日に町村制が施行されたのに伴い、下甑島の全域にあたる手打村、片野浦村、瀬々野浦村、青瀬村、長浜村、藺牟田村の6村の区域より甑島郡下甑村が成立した。それに伴い、それまでの藺牟田村は下甑村の大字「藺牟田」となった。翌年の1890年(明治23年)2月5日には、下甑村の条例「下甑村区会条例」が施行され、町村制第64条及び第114条に基づく区である「第六区」が大字藺牟田一円を区域として設置された。1897年(明治30年)に甑島郡は薩摩郡に編入され、薩摩郡のうちとなった。 第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月28日にはアメリカ軍による機銃掃射が行われ、付近を航行していた漁船の3名が死亡し、3日後の7月31日にはアメリカ軍の爆撃機3機によって爆弾が投下され4名が死亡した(藺牟田空襲)。 終戦後の1947年(昭和22年)には町村制が廃止されたのに伴い、それまでの町村制による区が廃止され、藺牟田の区域を管轄する下甑村の出先機関である第六出張所が設置された。
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