足立姫伝説と性翁寺開創
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:31 UTC 版)
「性翁寺は六阿弥陀発祥の地にして根元の旧跡である。」(「六阿弥陀根元 木余如来略縁起」(足立区登録有形文化財)より) 寺伝によれば、性翁寺の草創は神亀2年(725年)、行基によるものという。 寺伝によると、この地に居住していた足立庄司宮城宰相の一人娘である足立姫が嫁ぎ先から引出物不足と罵られ、神亀2年6月1日、これに耐えかねた彼女が下女12人と共に荒川に入水した。下女の亡骸はすぐ見つかったが、足立姫の亡骸はついに見つからず、父親の庄司は悲しみのあまり諸国の霊場を巡り、紀伊国(現在の和歌山県)の熊野権現にて、霊木で仏像を造って供養すればよいというお告げを受けた。 庄司は早速霊木を見つけ、地元・武蔵国に流れ着くように祈念して海に流した。すると、霊木は熊野より当地に着いていたという。古来より性翁寺付近に「熊野木」の地名あり。当時、当地には行基菩薩が滞在しており、庄司がこの件について話すと、六道流転に因み一夜にして霊木から六体の阿弥陀如来を造り上げた。さらに余った木でもう一体の阿弥陀如来を造り、足立姫成仏の遺影としたという。(これが「木余り如来」と呼ばれる由縁である)庄司が屋敷の傍らに草庵を建立してこの阿弥陀如来を安置した。これが性翁寺開創伝承であり、「足立姫伝説」と「江戸六阿弥陀」の発祥寺院ということになる。
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