越通船
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 03:50 UTC 版)
薩摩藩主島津斉興の長男だった島津斉彬は、早くから西洋の技術に関心を持っていた。1851年(嘉永4年)に藩主に就任すると、集成館事業を興すなど積極的に西洋技術の導入を進めた。斉彬はその一環として、西洋式の造船技術も導入しようとした。 1851年に薩摩藩支配下の琉球へジョン万次郎が上陸すると、彼が護送途中で薩摩に滞在している間に、斉彬は洋式船についての知見を学びとろうと試みた。斉彬の命により、藩士の田原直助や船大工らがジョン万次郎から教授を受け、スクーナーや捕鯨船の模型などを製作、洋式船の操縦術なども学んだ。 このジョン万次郎の情報を参考に、田原らが設計・建造したのが越通船と呼ばれる小型木造帆船である。要目は、池田文庫所蔵の『越通船図』によると長さ8間余(約14.5m)・幅1間3尺(約2.7m)・主マスト6間4尺余(約12.1m)である。構造は和洋折衷で、西洋風に肋材で強化された船体を持つ一方、甲板の張り方や舵は和船式であった。2本マストで、和船風の四角い横帆を中心からずらして張った変則的なラグセイル帆装を有した。 越通船は湾内での輸送用に使われ、1854年9-10月頃(嘉永7年8月)に3隻は江戸へと回航された。なお、田原直助は後により本格的な洋式帆船「昇平丸」の設計に関わっている。
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