越前支配の要・十郷用水
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 13:48 UTC 版)
古代には福井平野は大きな湖であり、洪水のたびに水害が起きていた。5世紀~6世紀に掛けて越前を支配していた男大迹王(継体天皇)は九頭竜川河口を広くして湖の水を海に出やすくしたといわれている。継体天皇が九頭竜川治水の先駆者であると現在でも伝えられている。奈良時代に入ると東大寺領の墾田が数多く開墾され、利水の為の用水路整備が始まった。766年の溝江における用水が九頭竜川の利水の端緒といわれている。 下る平安時代末期の保元年間(1156年 - 1159年)、越前国惣追捕使・藤原国貞は九頭竜川流域の灌漑を図るため鳴鹿地区より用水路を掘削・取水した。これが十郷用水である。鎌倉時代以降は十郷用水を中心とした利水開発が主体となった。1515年、越前守護・朝倉孝景は十郷用水の支配に乗り出し運用に関する詳細な規定を定めた。その後朝倉氏を滅ぼした織田信長は北陸総司令官として柴田勝家を越前に封じたが、勝家は「十郷用水条々」を1578年に制定。更なる運用規定を定めた。一方治水に関して手付かずに近い状況であった。
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