赴任までの経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/03 09:23 UTC 版)
寿町では、オイルショック以降に行われたまちづくりの一環で、1974年(昭和49年)に財団法人寿町勤労者福祉協会のビルである勤労福祉会館が完成した。このビルの目玉として、財団法人寿町勤労者福祉協会診療所が開設された。しかし、横浜市当局や市の医師会が横浜市立大学の医学部や日本医師会にこの所長業務を依頼したものの、引き受ける医師は皆無だった。多くの者が寿町を「ドヤ街」「恐ろしい町」と敬遠していたのである。 このために寿町は無医地区となり、医師不在のまま5年が過ぎた。その間、寿町の住民は病気になっても治療を受けることが困難な日々を過ごしていた。周辺の一般の医院や病院へ行っては白い目で見られたり、いい加減な治療しか受けられないことが多かった。健康保険に未加入の者や、金がない者が多いことなどから、寿町の住民というだけで診察を拒否されることも多かった。 そこで横浜市と医師会が発想を転換し、男性の医師に断られるなら女性の医師に依頼しようと、白羽の矢が立てられたのが佐伯であった。佐伯医院に加えて南部市場の診療所も引き受ける、ある種の腰の軽さと、自宅が寿町に比較的近いことなどが推薦の理由であった。当時の横浜市長である細郷道一も佐伯に懇願した。 夫は当初「男性でも尻込みするドヤ街に女性が行くことは危険」と反対した。前述のようにすでに佐伯は多忙であり、仕事をこれ以上増やすと家事に支障が出ることも問題と思われた。夫婦間の相談ではこの話を断ることで同意しかけ、どう言って断るかの話まで進んでいた。しかし、長女と長男の2人が「必要とされているなら引き受けるべき」と、強く勧めた。子供2人は当時は医学の道を歩み始めたばかりで、医療の理想に燃えていたという事情があった。 佐伯は寿町のことを知るにつれ、自分の力を生かせる場所だと確信した。親しい者たちからは「あんな恐ろしい町の医師になるなんて馬鹿だ」との反対の声、「引き受けるからには死ぬまでやれ」との励ましを受けつつ、1979年(昭和54年)7月に佐伯は寿町勤労者福祉協会診療所の診療所長に就任した。このことは同年10月に「並みの男でも二の足を踏む仕事に情熱を燃やす女医」として、新聞各紙でこぞって報道された。
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