豆州肥田氏の代表的な人物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/24 05:02 UTC 版)
肥田二郎景明 - 豆州肥田氏祖 肥田政長 - 1581年(天正9年)、北条氏直に仕える。 肥田中務丞 - 後北条氏家臣、永田陣屋(現横浜市南区永田町宝林寺裏手の丘)代官。 肥田和泉守政勝 - 徳川家康に仕える。1500石(1596-1615) 肥田善太夫 - 下館藩100石、藩主と共に讃岐高松へ移封。 肥田源左衛門 - 下館藩籾60俵、藩主とともに讃岐高松へ移封。 肥田幸十郎 - 肥田和泉の孫。承応3年(1654年)、讃岐高松藩へ移封、350石。 肥田半兵衛 - 肥田幸十郎の子。讃岐高松藩、500石。江戸年寄のちに御国勝手年寄となる。 肥田因幡守政業 - 娘が白井氏十七代、水戸白井氏四代の白井秀胤(1715年(正徳5年) - 1787年(天明7年))に嫁す。 肥田大助 - 水戸徳川家家老。 肥田春安 - 前野良沢門下で日本国内で初めて種痘を行った蘭方医、韮山代官江川坦庵に仕える。 肥田浜五郎 - 伊豆国賀茂郡八幡野村生れ 諱は為良、春安5男、長崎海軍伝習所2期生(榎本武揚同期生)、幕府軍艦操練所頭取、勝海舟、福沢諭吉らと共に咸臨丸で訪米。日本の造船の父といわれる。岩倉使節団理事官。 肥田昭作 - 浜五郎の子、明治維新後、文部省に入り東京英語学校(東京大学の前身)校長、福沢諭吉の交詢社に自宅を提供するなど設立に尽力、その後三菱合資会社、第十五銀行に移る。慶應義塾幼稚舎の創立に関与。
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