詩の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 01:28 UTC 版)
1913年(大正2年)8月、古渓は東京音楽学校(現在の東京藝術大学)学友会が発行する雑誌「音楽」に『はまべ』と題した三節からなる詩を発表した。第一節、第二節はすべてひらがな表記、第三節も「赤裳」「真砂」(「マナゴ」とルビがある)の2語のみ漢字で後はひらがなである。詩には(作曲用試作)との付記があり、当初から作曲されることを想定して書かれた詩であることがわかる。詩の舞台となった「はまべ」がどの浜辺を指すのか古渓は明言していないが、古渓は少年時代を辻堂で過ごしたことから辻堂海岸を思いだして書かれたとする解釈が多い。 第三節は一読しただけで意味を理解することは極めて難しく、この節の成立には当初から謎が多い。古渓の長男・林大は「三番と四番の歌詞を混ぜた犯人は、××先生らしいのですが、自分ではお気づきになっていないのです、アハハ。『音楽』に発表されたとき、歌詞の三番の前半と四番の後半がくっつけられていまして、これでは意味がとおらん、とおやじは言ってました。後にセノオ楽譜から出版されたのですが、版権なんかは無視された時代ですから、おやじのもとには連絡もきません。いつだったかおやじに、[原詩を]思い出したらどうかと言いましたら、忘れちゃったよ、という返事でしたがね」と述べていて、古渓にとって不本意な形での発表であったことがうかがえる。
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