記録画を描き始める
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 04:24 UTC 版)
1957年(昭和32年)、福岡県田川市弓削田にあった長尾本炭鉱の宿直警備員として働き始めた。1945年(昭和20年5月)に戦死した長男のことを思い出さないようにと、気を紛らわせるために日記の余白やチラシの裏に再び絵を描き始めた。1958年(昭和33年)5月頃から、「子や孫にヤマ(炭鉱)の生活や人情を残したい」と、日記や手帳の記録、自らの経験や伝聞を基に、明治末期から戦後にいたる炭鉱やその生活の様子を画用紙に墨で描き始めた。 1961年(昭和36年)冬の時点で、描いた絵はスケッチブック15冊分、延べ220枚に達していた。これらの絵の余白に説明を書き加える手法で描かれた記録画が、長尾鉱業所会長の長尾達生の目に留まり、1962年(昭和37年)5月に閉山ラッシュが続いていた筑豊炭田の中小炭鉱の手で出版の計画が立てられた。約300枚の記録画から140枚を収録した『明治・大正炭坑絵巻』は、1963年(昭和38年)9月に明治大正炭坑絵巻刊行会の自費出版として刊行された。
※この「記録画を描き始める」の解説は、「山本作兵衛」の解説の一部です。
「記録画を描き始める」を含む「山本作兵衛」の記事については、「山本作兵衛」の概要を参照ください。
- 記録画を描き始めるのページへのリンク