西部金屋鋳物産業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 21:12 UTC 版)
今では西部金屋は農村であるが、江戸時代以前の西部金屋は越中屈指の鋳物産地であった。 西部金屋鋳物師は室町時代から河内国丹南郡日置庄の流れをくむ鋳物師が流れ着き、この地で鋳造に励んだといわれる。戦国時代から安土桃山時代にかけて隆盛を極めた。 徳大寺領荘園般若野荘として鎌倉時代より人家が栄え、良質の砂が産出される庄川、千保川に近く、領主であった神保氏の居城増山城にも近かったことがこの地に鋳物が発展した理由と考えられる。鉱物は庄川からの他に、石清水八幡領であった射水郡金山保(射水市青井谷)からも運び込まれていたと考えられる。 1611年(慶長16年)、前田利長は西部金屋鋳物師の金森弥右衛門、喜多彦右衛門、藤田与茂、金森与兵衛、金森藤右衛門、般若助右衛門、金森九郎兵衛の7名を高岡へ招聘し高岡での鋳造を奨励した。高岡鋳物は現在でも高岡銅器として全国に知られているがその原点は西部金屋にある。 高岡へ移った鋳物師の菩提寺は光證寺(西部金屋)及び速恩寺(砺波市秋元)にあり、鋳物師の祖先は今もこの地に眠っている。 7名が高岡へ移った後も残った鋳物師が西部金屋での鋳造を続けたが、次第に地の利は悪くなり衰退していった。 西部金屋は元禄頃までは「西保三ヶ」と呼ばれていた。保は郡郷庄保の保を指すと見られ、古くは「東保七ヶ」と呼ばれた庄川右岸の東保(砺波市東保)と一体であった。1585年(天正13年)の庄川氾濫の際、西保と東保の間に庄川の流れができて村が二分されてしまった。西部金屋にある西保神社と東保の五社神社の祭神、社人が共通であることがそれを証明している。
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