西武ライオンズコーチ・監督時代
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「伊原春樹」の記事における「西武ライオンズコーチ・監督時代」の解説
引退後は西武で二軍守備・走塁コーチ補佐(1981年)、二軍打撃コーチ(1982年 - 1984年)、一軍守備・走塁コーチ補佐(1985年)、チームスタッフ(1986年)、一軍守備・走塁コーチ(1987年 - 1999年)を務めた。コーチ1期目には10度のリーグ優勝と5度の日本一に貢献したが、1999年10月1日、東尾修監督との野球観の違いやフロントの首脳陣若返り策により解任された。同19日に西武選手時代の同僚であった野村克也監督から招かれ、阪神タイガース一軍守備・走塁総合コーチへ就任。伊原が西武コーチ時代に担当していた守備・走塁の作戦面を任せたが、ジェイソン・ハートキーの盗塁失敗を巡り、野村と対立し、1年で退団。同年10月16日に2001年から西武の一軍作戦兼守備・走塁コーチとして復帰することが発表され、同シーズン限りで監督の東尾が勇退し、次期監督と目された伊東勤が現役続行を望んだため、10月11日に監督へ就任。投手コーチは松沼博久を招聘した。 就任1年目の2002年、90勝を挙げて4年ぶりのリーグ優勝に導いた。捕手だった和田一浩を外野手にコンバートさせた。和田は5番・左翼手のレギュラーに定着。巨人の日本シリーズでは第1戦目の先発投手は松坂大輔が故障明け6勝に終わったこともあり、伊東は同年10勝した左腕の三井浩二、松沼は終盤調子を上げ8勝をした石井貴を推薦した。伊原は松坂を先発させたが3回4失点で敗戦投手なり、4連敗で敗退した。翌2003年は後身の育成のため、一軍守備走塁コーチの清水雅治に監督就任後も続けていた三塁ベースコーチを任せ、好成績の2位で終わるものの、当初から予定されていた伊東の監督就任を受け、9月17日に退任が発表される。
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