行為と意図の役割
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 05:44 UTC 版)
「業 (ジャイナ教)」の記事における「行為と意図の役割」の解説
意図の役割は、カルマの理論が生まれてから今日まで、カルマの理論の中で最も重要で決定的なもののひとつである。ジャイナ教において、意図は重要ではあるが、本質的に罪あるいは悪い行いの必須条件ではない。邪悪な意図は罪を犯すうえでの一つの様態を成すに過ぎない。故意にしろ「過失」にしろ何らかのなされた行為はカルマの反響を受ける。仏教のような哲学では、人が暴力の罪を犯したといえるのはその人が暴力を行おうと意図した場合に限られる。一方、ジャイナ教によれば、人が暴力を働こうと意図しようとしまいと、その人の行いから暴力的な結果が生まれたなら、その人は暴力の罪を犯しているのである。 修行者が知らず知らずに信者仲間に毒の食糧を振る舞ってしまうという例を用いて、ジョン・コラーがジャイナ教における意図の役割を説明している。ジャイナ教の考え方に従えば、その毒の食糧を食べたために信者仲間たちが死んでしまったらその食料を振る舞った修行僧は暴力行為の罪を犯していることになる。しかし仏教の考え方に従えば彼は有罪ではない。二つの考え方の決定的な違いはこうである。つまり、仏教の考え方では、彼はその食料が毒だと知らなかったのだから彼の行為は意図的なものでないとカテゴライズされ、彼の行為は許される。それに対してジャイナ教の考え方では、彼が無知で不注意だったことによって、彼は自分の行為の結果に関して責任がある。ジャイナ教では、その修行者の無知・不注意こそが暴力をなそうという意図を構成していると主張され、そのため必然的に彼は有罪だということになる。このように、ジャイナ教の分析に従えば、意図が欠如しているから人が犯した罪の結果たるカルマからも放免される、ということはない。 意図はカシャーヤ(kaṣāya)の機能である。カシャーヤとは負の感情や精神的(あるいは熟慮的)活動の負の性質を指す。意図された行為が悪化させる要因として起こることは、霊魂の振動を増加させ、霊魂がより多くのカルマを取り込んでしまうという結果をもたらす。このことは『タットヴァールタスートラ』(6.7)で説明されている: 「意図的行為は強いカルマの呪縛を生み出し、意図的でない行為はより弱く短期間しか持続しないカルマの呪縛を生み出す。」 同様に、肉体的行為もカルマが霊魂を束縛するための必要条件ではない。意図が存在することは十分条件ではある。このことはクンダクンダ(1世紀)が『サマヤサーラ』(262-263)で説明している: 「殺そう、盗もう、不貞でいよう、資産をため込もうといった意図は、こういった罪が実際に行われようが行われなかろうが、邪悪なカルマの束縛を招く。」 そのためジャイナ教では、カルマの束縛という点で、意図と具体的行為とを同じだけ強調している。
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