行灯袴と緋袴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/13 05:43 UTC 版)
明治期に教育者の下田歌子が学習院の前身華族女学校の女学生用の袴として、襠(袴の内股に幅にゆとりを持たせるために加える布)が無く、より着脱がし易い一般に「女袴」とも呼ばれている行灯袴(あんどんはかま)を発明し、好評を受けて後に行灯型の緋袴も作られることとなった。現在の緋袴は、主にこの行灯袴が主流である。この発明の経緯として、自身も学習院の卒業生で旧加賀藩主の家系を継ぐ侯爵・前田利為の長女酒井美意子は、「古代には裳(も:スカート)や袴を用いていたが、近世には用いられなくなっていた。しかし、それでは礼儀に欠けるというので、教授の下田歌子らの発案により、従来の緋袴(ひばかま)と指貫(さしぬき:裾をふくらませてくくった袴)とを折衷した袴がつくられた。それから長い間、女子教官や生徒はこれを常用し、一般の女学生もこれを模倣するようになる。つまり、当時の娘たちは準礼装(セミ・フォーマル)で毎日登校していたのである。学校とは学問や芸術を教えていただく場であるから、先生に敬意を表す形として服装も整えるのが礼儀である、と人々は考えていた。」と述べている。
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