蚕種大総代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 22:44 UTC 版)
明治時代初期には、ヨーロッパにおける微粒子病が一段落したこともあって、蚕種の輸出量は減少していった。もうひとつ、生糸や蚕種の粗製濫造も問題となっており、日本の蚕業の信頼が低下していた。 大蔵省はこれに対し、明治5年(1872年)2月に蚕種の質を確保するため、各府県の代表的な蚕種家を「蚕種大総代」に任命し、大総代会議を通じて規制を行うこととした。蚕種大総代は原則として各府県ごとに1名を選出することとされていたが、群馬県の場合、田島弥平と田島武平の両名を任命するようにと大蔵省の通達に明記されていた。蚕種総代制の下での蚕種の品質確保のための諸規制の一つに、「養蚕検査表」の導入があった。これは、蚕種家たちが蚕種を作るために蚕を育てた際の記録を、大蔵省作成の書式に従って詳細に記録させ、検査をすることになっていた制度だが、その書式を考案したのは田島弥平であったとされている。 蚕種大総代制は、明治6年(1873年)11月に内務省が誕生したことでその下に組み込まれたが、そうした規制の存在に対する諸外国の反発を考慮し、内務省はむしろ蚕種輸出に係る規制を緩和する方向に動いた。蚕種大総代は田島弥平を議長とする秘密会議を明治7年(1874年)に開催し、申し合わせ事項を決めるなどしたが、そうした動きを認識した諸外国の圧力などによって、実効性を持たなかった。結局、蚕種大総代制は、明治8年(1875年)3月4日に廃止となった。
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