葬儀と没後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:21 UTC 版)
同日午後5時、成子の遺体は麹町三番町の宮内庁分室に移され、さらに午後7時30分に正田英三郎や鷹司平通により、かつて成子が花嫁修業で使っていた二階の一室に安置された。その後、天皇・皇后をはじめとする皇族のみで、御舟入の儀(納棺)が行われた。成子の遺体は白羽二重の袿袴で、棺には花や絹の袋にいれた茶、そして遺児たちが描いた絵などが納められた。 7月26日に葬儀が青山葬儀所で執り行われた後、遺体は火葬された。葬儀委員長は野村吉三郎衆議院議員(当時)であり、司祭長は伊達巽明治神宮宮司だった。「天皇・皇后は目下の者の葬儀に参列しない」という慣習をはじめて破って参列した。 8月4日に斂葬の儀が行われ、東京都文京区の豊島岡墓地に埋葬された。彼女の墓所には、母・香淳皇后の指示によって成子のお印の紅梅が植樹された。墓所は盛厚の希望で比翼塚となっており、向かって左には盛厚のお印である松が植樹されている。 なお夫:盛厚は、1964年(昭和39年)10月3日に寺尾佳子と再婚し、厚彦(寺尾家養子)、盛彦の2男をもうけたが、1969年(昭和44年)に逝去している。 没後20年にあたる1980年(昭和55年)、父天皇は、記者会見の中で「照宮は本当に朗らかな人で、私の話し相手として面白くあった」とした上で、「若くして亡くなったということを、大変残念に思っています」と振り返った。 没後40年にあたる2001年(平成13年)7月23日、没後50年にあたる2011年(平成23年)7月23日には、弟で第125代天皇であった明仁と皇后美智子が、墓所に拝礼した。
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