葛城襲津彦の新羅征討
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神功皇后62年(262年または382年)、葛城襲津彦を遣わして新羅を撃たせる。 『百済記』によれば壬午(382)年、新羅は日本に朝貢しなかったため、日本は沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し新羅を討伐した。しかし、沙至比跪は新羅の美女に心を奪われ矛先を加羅に向け、加羅を滅ぼす。加羅国王己早岐、児白久至らは、百済に亡命する。加羅国王の妹既殿至は、大倭(やまと)の天皇に直訴すると、天皇は怒って、木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪を攻め、加羅を戻した。また、沙至比跪は天皇の怒りが収まらないことを知ると石穴で自殺したともいう。 葛城襲津彦については、神功代以降も、次のような記録がある。 「葛城襲津彦」を参照 応神14年 百済の弓月君が誉田天皇に対し、百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないことを告げる。天皇は襲津彦を加羅に遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、3年、音沙汰もなくなった。 応神16年8月、天皇は平群木菟宿禰・的戸田宿禰に「襲津彦が帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない、加羅に赴いて襲津彦を助けろ」といって、加羅に兵を派遣した。新羅の王はその軍勢に怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した。 仁徳天皇41年3月、紀角宿禰に無礼をはたらいた百済王族の酒君(さけのきみ)を、百済王が襲津彦を使って天皇のところへ連行させる。 以上の記述において日本書紀の紀年を記載したが、日本書紀の紀年論にみられるごとく年代はいまだ確定していない。そのため、神功皇后の活躍、三韓征伐のあった年代および、その史実の妥当性についての研究が続いている。紀年については、『日本書紀』は百済三書の一つ『百済記』を参照または編入している。百済記の年月は干支で記しているので60年で一周するが、『日本書紀』の編者は日本の歴史の一部を2周(2運=120年)繰り上げて書いているとされており、百済記もそれに合わせて引用されているので、当該部分の記述も実年代とは120年ずれていると考えられる。井上光貞によれば、日本書紀の編纂者は神功皇后を卑弥呼に比定したこともあって、干支を2運繰り上げたとしている。また、百済記は早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている。 「百済三書」も参照
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