葛城襲津彦の新羅征討とは? わかりやすく解説

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葛城襲津彦の新羅征討

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:15 UTC 版)

三韓征伐」の記事における「葛城襲津彦の新羅征討」の解説

神功皇后62年262年または382年)、葛城襲津彦遣わして新羅を撃たせる。 『百済記によれば壬午(382)年、新羅日本朝貢しなかったため、日本沙至比跪(さちひこ、襲津彦)を派遣し新羅討伐した。しかし、沙至比跪新羅美女心を奪われ矛先加羅に向け、加羅を滅ぼす。加羅国王早岐、児白久至らは、百済亡命する加羅国王の妹既殿至は、大倭(やまと)の天皇直訴すると、天皇怒って木羅斤資(もくらこんし)を使わし沙至比跪攻め加羅戻したまた、沙至比跪天皇怒り収まらないことを知ると石穴で自殺したともいう。 葛城襲津彦については、神功以降も、次のような記録がある。 「葛城襲津彦」を参照 応神14年 百済弓月君誉田天皇対し百済の民人を連れて帰化したいけれども新羅が邪魔をして加羅から海を渡ってくることができないこと告げる。天皇襲津彦加羅遣わして百済の民を連れ帰るように命令するが、3年音沙汰なくなった応神16年8月天皇平群木菟宿禰的戸田宿禰に「襲津彦帰ってこないのはきっと新羅が邪魔をしているのに違いない加羅赴いて襲津彦助けろといって加羅に兵を派遣した新羅の王はその軍勢怖じけづいて逃げ帰った。そして襲津彦はやっと弓月氏の民を連れて帰国した仁徳天皇41年3月紀角宿禰無礼はたらいた百済王族酒君(さけのきみ)を、百済王襲津彦使って天皇ところへ連行させる。 以上の記述において日本書紀紀年記載したが、日本書紀紀年論みられるごとく年代はいまだ確定していない。そのため、神功皇后活躍三韓征伐のあった年代および、その史実妥当性についての研究続いている。紀年については、『日本書紀』百済三書一つ百済記』を参照または編入している。百済記年月干支記しているので60年一周するが、『日本書紀』編者日本の歴史一部を2周(2運=120年繰り上げて書いているとされており、百済記もそれに合わせて引用されているので、当該部分記述実年代とは120年ずれていると考えられる井上光貞によれば日本書紀編纂者神功皇后卑弥呼比定したこともあって、干支を2運繰り上げたとしている。また、百済記早くから暦を導入しており、紀年は正確とみられている。 「百済三書」も参照

※この「葛城襲津彦の新羅征討」の解説は、「三韓征伐」の解説の一部です。
「葛城襲津彦の新羅征討」を含む「三韓征伐」の記事については、「三韓征伐」の概要を参照ください。

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