葛山氏の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 01:31 UTC 版)
これと相前後して上杉禅秀の乱(1416年)が起きた。鎌倉公方足利持氏を補佐していた上杉禅秀が、足利持氏への不満を募らせ、関東地方の諸国人を率いて応永23年(1416年)に反乱を起こしたのである。寝所を奇襲された足利持氏は家臣の助けで難を逃れて鎌倉を脱出、藍沢原の大森氏のもとで保護された。足利持氏はこのあと、さらに西の今川氏の瀬名(静岡県葵区)へ避難した。 上杉禅秀を追討する幕府軍が組織され、駿河国の今川氏、大森氏、大森氏の支族葛山氏(大森葛山氏)らが足利持氏を奉じて関東へ攻め入った。幕府軍は足柄峠で上杉禅秀軍を破り、そのまま相模国へ攻め下ると、上杉禅秀に与していた小田原の曾我氏や中村氏、土肥氏らの攻略を果たした。 大森氏はこの戦いの功績で、曽我氏や土肥氏らを駆逐したあとの小田原を領地として授けられた。以後、大森氏宗家は相模国に移り、小田原城を本拠とした。藍沢原は支族が治めるようになり、その中から葛山城の葛山氏(大森葛山氏)や御宿城の御宿氏が出た。葛山氏が大森氏から分家したのは平安時代末期にまで遡るといい、その頃からこの地域の在地領主として振る舞っていたという。 まもなく葛山氏は大森氏から自立、この地方の国人領主として台頭する。永享の乱(1438年)では、大森氏は鎌倉公方につき、葛山氏は幕府軍について敵味方に分かれている。
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