葛山氏の居城として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 06:12 UTC 版)
「葛山城 (駿河国)」の記事における「葛山氏の居城として」の解説
葛山氏は、鎌倉期から室町期に、駿河東部の名族として御家人・将軍家奉公衆として活躍し、室町後期から戦国期には守護の今川家の傘下となりながら、葛山城を築城し、国衆として独自の領国運営と領土防衛をしていた。駿河東部に位置する葛山氏の領地は、今川氏・後北条氏・武田氏と接するため、生き残りのため、今川氏・後北条氏両者と関係を結んでいたが、大名間の力関係により、主家を変えることもたびたびあった。武田信玄が、1568年(永禄11年)に駿河に侵攻した際には、敵対していた今川氏を援助する後北条氏に、武田氏側についていた当主葛山氏元は葛山城を奪われた。1571年(元亀2年)に武田氏・後北条氏の和解が成立すると、武田信玄は氏元を処刑し、変わって信玄の六男信貞に、後北条氏から返還された葛山城を継がせた。その後、武田氏の支配下に置かれ続けた葛山城は、1582年(天正10年)に武田氏が滅亡するとともに廃城となった。
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