英主アフマド・アル=マンスール
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「サアド朝」の記事における「英主アフマド・アル=マンスール」の解説
詳細は「アフマド・マンスール・ザハビー」を参照 アフマドは、マンスール(「勝利者」)、「黄金の人」というあだ名を付けられて、アフマド・アル=マンスール(在位:1578年 - 1603年)と呼び習わされ、サアド朝の全盛期を築いた一代の英傑であった。彼は、前述の通り、若い頃にオスマン帝国のスレイマン1世のもとにいたことがあるが、外遊によってトルコだけでなくヨーロッパ各地の事情にも通じ、トルコ語を含む数カ国語を操るという天才的な人物であった。スペインに対しては、友好関係を維持し、フェリペ2世がポルトガル王を兼ねることについて、恐れを抱いたイギリスのエリザベス1世の協定締結を拒絶しつつも、スペインに対するイギリスの意識を巧みに利用して、1589年、スペイン統治下のアルジーラを獲得した。トルコに対してもその侵攻に備えてフェズの城壁を強化し、アルジェリアよりにある町の城壁を固める一方で、宮廷の高官たち全てにトルコ語を学ばせたり、軍隊にもトルコ風の要素を取り入れるなどトルコを必要以上に刺激しないよう注意を払った。内政においては、各地の聖者信仰の対象である小聖者たちを「王政機構(マフザン)」に組み込んだ。そして閣僚には、各地の有力部族長のほか、有能であれば、旧キリスト教徒や旧ユダヤ教徒も登用して、国内の安定化と行政機構の効率化を図った。それから国内に残存する小聖者を中心とする同胞団勢力や修養所勢力、山岳部族を一つずつ平定していった。この掃討戦においてアフマド・アル=マンスール王の威光は、神の恩寵(バラカ)として捉えられ、スーフィー勢力の中にも戦わずして降伏する勢力も多かった。このような国内安定策は、当然ながら経済的な繁栄をもたらし、多数の国の商船がモロッコの各港に入港した。王は、運河を整備させたので、サハラ越えの交易路と海路が結ばれ、物資の流通がスムーズになり、その中継貿易の利益が国庫を潤した。ヨーロッパ各国の外交使節団も王の歓心を買うために頻繁にマラケシュの宮廷に来訪した。王の時代には、マラケシュに壮麗な墓宮やトルコの要素を取り入れつつ、イタリアから運んだ大理石で築かれたバーディー宮殿、フェズに華麗なサーン・パピオンが付設されたカラウィーン・モスクが築かれた。また、マリーン朝時代に建てられたイブン・ユースフ・マドラサを修復し、その規模を拡張した。
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