芸術家への野心
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 01:40 UTC 版)
「アドルフ・ヒトラーの絵画」の記事における「芸術家への野心」の解説
ヒトラーの自伝でもある『我が闘争』には、若き日の彼がプロの芸術家を志し、ウィーン美術アカデミーを受験するが失敗して夢破れる姿が描かれている。ヒトラーは1907年と1908年の二度にわたって試験を受け、そして落第している。最初の年は予備試験には合格していた。これは、聖書などからとった有名な場面の絵を2枚描くというもので、1枚につき3時間ずつ時間が与えられた。本試験は、試験官にあらかじめ用意した作品集(ポートフォリオ)を提出するというものだった。ヒトラーの絵には「頭部〔デッサン〕が少なすぎる」という寸評が記録に残っている。総じて教授たちからは絵画よりも建築の分野で才能を発揮すべきであると判断された。その一人からは、彼の結果に同情されるとともに、それなりの才能があることは認められ、建築学科のある学校を受けることを勧められもした。しかし、そのためにはヒトラーがドロップアウトした中等学校に戻らねばならなかったであろうし、それは彼の望むところではなかった。 後年、ヒトラーがウィーンの風景を描いたポストカードをつくっては売りさばくときには、芸術家たちの集うミュンヘンのカフェによく通ったものだった。大御所の作家が、自分にプロの画家として身を立てる手助けをしてくれるのではという期待を胸にしていたものの、その希望が果たされることはなかった。 1939年8月、第二次世界大戦が勃発する直前にヒトラーとイギリス外交官のネヴィル・ヘンダーソンの間で交わされた会話によると、ヒトラーは「私は政治家ではなく芸術家だ。ポーランドの問題が片付いたら、芸術家として人生を全うしたいものだ」と語っていたという。
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