船遊亭扇橋の記録
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船遊亭扇橋は、1841年(天保12年)この地方を訪れ、『奥のしをり』に三哲神社を記録している。 大滝から見ると、十二所の向こうに三哲山という山がある。ここには昔、南部から来た三哲という医者がいた。武芸、学問に秀で、十二所の領主、家中、町の人まで教えを受けたが、領主をはじめ誰からも礼物がなかったのを怒り、領主の年貢米が蔵に運ばれる途中を襲って奪った。それで、領主から捕り手を差し向けられたが、手ごわくて捕らえられなかった。その後、三哲が大滝へ湯治に行った時、湯に入っているのを殺そうと、槍で腿を突き刺したが、三哲が刺客を捕まえて投げつけたので、皆逃げ去った。そこに三哲の弟子六人が残り、三哲を介抱したのに対し、三哲が「我を向こうの山に連れて行け」というので、弟子たちが三哲の手を引いてようやく連れて行った。その途中で、これを見て笑った者がいて、その子孫は今になって身障者になっている者もいるという。さて、それから三哲は、山に登って穴を掘らせ、その中に入って切腹して果て、そのままそこに埋められた。その年、十二所に一人の老人が「どんな病気にも効能がある」という薬を売りに来た。みんながそれを買って、手箱や押し入れなどへ入れておいたところ、そこから火が出て、武家の屋敷も、町家も残らず焼き払い、翌年、ようやく建て替えができたのだが、またまた火が出て残らず焼けてしまった。さらにその翌年、今度は三哲の死んだ山から火玉が出て武家の屋敷へ飛び、そこからまた町家が残らず焼けた。しかし三度とも、三哲を介抱した六人の家は大火の中でとびとびに焼け残った。領主の茂木氏も、これはすべて三哲の祟りだろうと察し、三哲を神として三哲山大明神と祀り上げた。それからはなんの災いもなくなった。毎年六月十八日がお祭りで、参詣する人が多いという。これは、百七、八十年前のことであるという。(三哲という人は、南部の九戸の左近監殿の身内で、千葉上総之助といって、九戸の乱の落人で、十二所へ来てから三哲と名乗り、医者となったそうだ) また、十二所から半里、三哲山から南の方に別所村という村がある。大変な山の中だが、家の数は五、六十軒もあるだろうか。この村人も九戸の乱の落人で、周辺とは村の言葉も別で、農業、山仕事に出る時の弁当を入れる袋を「武者袋」というそうだ。そのほか、いろいろ別な言葉があるという。これはすべて九戸の落人の証拠で、何事も周辺の村とは別なので「別所村」というのだ。
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