船遊亭扇橋の記録とは? わかりやすく解説

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船遊亭扇橋の記録

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 16:49 UTC 版)

三哲神社」の記事における「船遊亭扇橋の記録」の解説

船遊亭扇橋は、1841年天保12年)この地方訪れ、『奥のしをり』に三哲神社記録している。 大滝から見ると、十二所向こうに三哲山という山がある。ここには昔、南部から来た三哲という医者がいた。武芸学問秀で十二所領主家中町の人まで教え受けたが、領主をはじめ誰からも礼物がなかったのを怒り領主年貢米運ばれる途中襲って奪った。それで、領主から捕り手差し向けられたが、手ごわくて捕らえられなかった。その後、三哲が大滝湯治行った時、湯に入っているのを殺そうと、で腿を突き刺したが、三哲が刺客捕まえて投げつけたので、皆逃げ去った。そこに三哲の弟子六人残り、三哲を介抱したのに対し、三哲が「我を向こうの山に連れて行け」というので、弟子たちが三哲の手引いてようやく連れて行った。その途中で、これを見て笑った者がいて、その子孫は今になって身障者になっている者もいるという。さて、それから三哲は、山に登って穴を掘らせ、その中に入って切腹し果てそのままそこに埋められた。その年、十二所一人老人が「どんな病気にも効能がある」という売りに来た。みんながそれを買って手箱押し入れなどへ入れておいたところ、そこから火が出て武家屋敷も、町家も残らず焼き払い翌年、ようやく建て替えができたのだが、またまた火が出て残らず焼けてしまった。さらにその翌年今度は三哲の死んだ山から火玉出て武家屋敷飛び、そこからまた町家が残らず焼けた。しかし三度とも、三哲を介抱した六人の家は大火の中でとびとびに焼け残った領主茂木氏も、これはすべて三哲の祟りだろうと察し、三哲を神として三哲山大明神祀り上げた。それからはなんの災いなくなった毎年六月十八日がお祭りで、参詣する人が多いという。これは、百七、八十年前のことであるという。(三哲という人は、南部九戸左近監殿の身内で、千葉上総之助といって九戸の乱落人で、十二所来てから三哲と名乗り医者となったそうだ) また、十二所から半里三哲山から南の方に別所村というがある。大変な山の中だが、家の数は五、六十軒もあるだろうか。この村人九戸の乱落人で、周辺とは言葉も別で、農業山仕事に出る時の弁当入れる袋を「武者袋」というそうだ。そのほか、いろいろ別な言葉があるという。これはすべて九戸落人証拠で、何事も周辺とは別なので「別所村」というのだ。

※この「船遊亭扇橋の記録」の解説は、「三哲神社」の解説の一部です。
「船遊亭扇橋の記録」を含む「三哲神社」の記事については、「三哲神社」の概要を参照ください。

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