自由タイ運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/11 02:42 UTC 版)
「セーニー・プラーモート」の記事における「自由タイ運動」の解説
「自由タイ」を参照 1941年12月8日早朝、日本軍がタイに侵攻し、プレーク・ピブーンソンクラーム首相により、日本軍がマレー半島とミャンマーへ侵入するに際しタイの軍事施設を利用できることを認めた休戦協定が締結され、さらに12月21日には日本との間に正式に日泰攻守同盟条約が締結された。また、ピブーンソンクラーム政権は1942年1月25日にイギリスとアメリカに宣戦布告をした。駐英大使はこの宣戦布告をイギリス政府に届けたが、セーニーはこれを拒否、アメリカでの抗日運動を組織しようと考えた。 12月8日午前にはコーデル・ハル国務長官と会談し、駐米大使館において大使館員満場一致で連合国側と運命を共にすることを決定した。同日午後には連合国に対する協力を国務省で提案した。タイの早期降伏を親日分子の責任に帰した彼は、戦争の遂行のためのアメリカ国内におけるタイ資産の凍結解除についてハルと会談し、在国タイ人が「政府が日本の掌中にある間、真に愛国的で自由を愛するタイ人の政府を組織し維持すること」を提案した。国務省は、セーニーがタイ政府を代表し続けているように行動することを決定したため、セーニーは凍結されていたタイ資産を利用することが出来た。 彼は、連合国を支持するタイ人のボランティアを動員する計画を進め、外交官とその家族以外にもほとんどの留学生が参加した。
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