脱北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 22:49 UTC 版)
1997年1月、主体思想に関する講演のため訪日した直後の2月12日に帰路の北京で秘書の金徳弘(朝鮮労働党中央委員会資料研究室副室長)と共に韓国大使館に赴き亡命を申請する。4月20日に韓国に入国。 亡命理由について、黄長燁は手記で祖国の体制に義憤を覚え、その変革を図るためと述べている。但し、黄長燁は共産党体制よりも一歩進めた独裁化の為のイデオロギー的な整備を行った当事者でもある。この事から国内での権力闘争に敗れたため保身を図って亡命したのだとも言われている。また、在中国朝鮮人の女性との不倫関係により立場が悪化した為とも言われる。いずれにしても亡命の動機の真偽は定かではない。 黄長燁の亡命の前後には、北朝鮮当局が公式プロパガンダにおいて「主体思想」の語を出す頻度を減らし「赤旗思想」の語を登場させたことが観察されている。この事から、北朝鮮当局が「主体思想」(自主自立路線)を撤回する必要に迫られていることが疑われた。しかし、「赤旗思想」の語は程無くして消えた。 黄長燁ほどの高官が亡命するということは金正日体制が極めて不安定であるとの印象を海外の観察者に与えた。日本では現代コリア研究所の関係者を中心に一部では政権崩壊寸前との憶測を飛ばす者がいた。 なお、この亡命を受けて金正日は黄長燁の親族3000人を一斉検挙し、強制収容所に収監した。
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