胎中の政治家完全引退と憲政功労者慰霊祭の中断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 07:39 UTC 版)
「憲政碑」の記事における「胎中の政治家完全引退と憲政功労者慰霊祭の中断」の解説
1933年(昭和8年)の海老名の憲政碑建立、そして1937年(昭和12年)の浅草本願寺の憲政碑建立は、昭和戦前期の政党政治が崩壊へと向かいつつある情勢下において、発起人である胎中楠右衛門が、憲政碑建立と憲政功労者慰霊祭を行うことによってまずは国民の政党政治に対する理解を深め、厳しい立場に追いやられていった政党政治家の奮起、そして何よりも政党政治の再生を願ったものであった。これは藩閥に対抗して議会政治の確立を訴えた自由党に入党して以降、政党政治に情熱を傾け続けてきた胎中楠右衛門の思いがあった。 しかし胎中の望みとはうらはらに、新体制運動に応えて1940年(昭和15年)には全政党が解党してしまった。そして横田千之助の死後、胎中が私淑した前田米蔵は大政翼賛会議会局に入ってしまい、仲の良かった先輩代議士の望月圭介は1941年(昭和16年)1月に亡くなった。これ以降、これまで憲政、政党政治擁護の論陣を張り続けてきた胎中楠右衛門は政治の話を口にしないようになった。そして1942年(昭和17年)の翼賛選挙時には翼賛政治体制協議会神奈川県支部の会員となることを了承し、胎中は後継者として翼協の新人候補である安藤覚を推薦、応援した。翼賛選挙で安藤は当選し、胎中は完全に政界を引退することになった。結局、胎中が憲政碑に込めた願いは実を結ぶことはなく、高橋勝治は憲政碑に関する論文の中で「歴史的に見れば、憲政碑は近代日本政党政治の墓碑となったといえなくもない」と評している。 また、1940年(昭和15年)の政党解消後、1941年(昭和16年)は衆議院の主催で憲政功労者慰霊祭が執り行われた。しかし翌年以降、慰霊祭は中断された。なお、戦火によって浅草本願寺は焼失してしまったが、憲政碑は戦災を免れ、西浅草の現東本願寺境内に現存している。 戦後、胎中は大政翼賛会に関与したため公職追放となった。追放中の1947年(昭和22年)死去。
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