老賢者から大将軍に
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 03:41 UTC 版)
武霊王に続く恵文王と孝成王の治世下では、50年以上に渡って、あまり国事に参与しなかったようであるが、その次の悼襄王の代で転機がやってきた。紀元前245年、王の失策により、歴戦の将軍である廉頗と楽乗が同時に出奔してしまった(廉頗の項を参照)ため、急遽、龐煖が将軍として抜擢されることになったのである。 『鶡冠子』世賢篇には以下の様なやりとりがある。ここで、龐煖は道家の「無為自然」の思想を説くと共に、本当に有能な家臣は名声が表に出にくいものであるが大事にすべきこと、危機に陥ってからの後手の対処では遅いことを遠回しに王に警告している。 あるとき悼襄王が龐煖に質問した。「君主というのもまた国に(積極的に)何かを為すべきものなのかね」 龐煖「王は名医兪跗の医術をご存知ないのですか?病が既にあれば必ず治癒し、鬼神も彼を避けたと言います。楚王が政務を為し部下の兵を扱うさまは、聖王堯が人に任せるがごとく、親戚を用いないで必ず能臣によってその病を治させ、自分が贔屓する人に任せないで必ず昔馴染みの医者を使いました。楚王は、年老いて病が身にあることを伝え聞くと、必ず兪跗を招いてもてなしたといいます」 悼襄王「ふむ」 龐煖「王はお忘れですか。昔、伊尹は殷の医者となり(つまり王に代わって政務を担当し)、太公は周の武王の医者となり、百里は秦の医者となり、申麃は郢の医者となり、原季は晋の医者となり、范蠡は越の医者となり、管仲は斉の医者となって斉を五箇国の覇者としました。善は一つでありますが、道のことわりは同じではありません」 悼襄王「そのことわりをお聞かせ願いたい」 龐煖「王は魏の文侯が名医扁鵲に問いただした逸話をご存知ないのですか? 文侯『先生は三人兄弟だが、どなたが最も優れた医者であるのかね』扁鵲『長兄が最高で、次兄がこれに次ぎ、わたくし扁鵲は最も下でございます』文侯『理由を聞いてもよろしいかな?』扁鵲『長兄は病の中に神を見ることができ、形になる前から取り除くことができます。ですから、(誰も病に気づかず)その名声は我が家より外には出ませんでした。次兄は病が少し出た途端に治してしまいます。ですから、(誰も病が重かったことに気づかず)その名声は郷里の門より外には出ませんでした。この扁鵲めは血脈を鋭い鍼で刺し、劇薬を投じ、皮膚を裂きました。ですからしばらくして、諸侯に名声が聞こえ出たのでございます』文侯『そうか。もし(病が大きく露見してから対処するという)扁鵲のやり方によって(斉の桓公が側近の)管仲に医術(つまり政務)を行わせていたならば、いったい桓公は覇者となることができただろうか』 およそこのように、(本当の名医というのは)病がないところに病を見てとり、名の無いうちに治し、形の無いものを使って、最上の功能を成し、その根底にあるものを自然と呼ぶのです。ですから、優れた医者はその造化の本質に従うけれども、劣った医者は無理にこれを破ろうとして、不死を望んでいるのに、(宋の襄公のように)傷が太ももに及んで(死んで)しまうのです」 悼襄王「うむ。余自身には傷を防ぐ力はないが、(龐先生などの名臣がいるのだから)どうして誰かが余の上に毛ほども傷を加えることができようか?」
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