美術館関係者による由来の確認
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 03:44 UTC 版)
「徳川家康三方ヶ原戦役画像」の記事における「美術館関係者による由来の確認」の解説
徳川黎明会総務部非常勤学芸員の香山は、徳川美術館の設立の経緯について調べる過程で、上述の1910年に名古屋市内で開催された尾張徳川家の展覧会に関する雑誌『国華』の紹介記事中の「(…)家康公の肖像が3幅程ある、其の中に長篠敗戦の像を敬公が特に当時苦窮の状を忘れざる為に画かしめたものは普通の肖像と異って甚だ面白い。(…)」との記述について、記事の内容からこれを本図に関する記述と判断し、1910年時点で本図が「三方ヶ原敗戦」ではなく「長篠敗戦」の図とされていたことを指摘した。 香山によると、2014年当時、徳川美術館学芸部長代理だった原史彦は、香山からの照会に対し、本図が『三方ヶ原戦役画像』とされている根拠について「江戸末期-大正期の箱書(表書)によるが、三方ヶ原戦役の同様のエピソードに関する記述文献はなく、江戸時代の道具帳では『神君御肖像』と記されているのみで証左はとれない」と説明していた。 その後、2015年8月18日に徳川美術館で開かれた「徳川家康の肖像‐三方ヶ原戦役画像の謎」と題した夏期講座(講演会)において、原は、本図の由緒を確認した結果、江戸時代には本図は「三方ヶ原」と結び付けられていなかった、と説明し、同講座での発表内容をまとめた『徳川家康三方ヶ原戦役画像の謎』において、1993年までの元外箱の箱書きでは、本図は「長篠」の図とされていたこと、「三方ヶ原」の記述が確認できた最も古い文献は1936年の徳川美術館開館の際の新聞記事であり、それ以前については史料的根拠がないこと。元外箱の「長篠」との記載にも史料的根拠がなく、本図は18世紀末に紀伊徳川家から尾張徳川家に伝来したと考えられることから、尾張徳川家初代・義直が描かせた、という口伝も根拠が薄いと考えられること。など、上述の口伝の発展の経緯を指摘し、陣中の武装姿を描いたものであっても特定の合戦に結び付くものではなく、武神として崇敬するための礼拝像として描かれたと見なし得る、として、藤本および松島の見方を支持した。
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