織豊政権期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 01:41 UTC 版)
天正9年(1581年)には雑賀荘の土橋守重との対立が先鋭化、顕如の説諭も空しく、翌天正10年(1582年)1月23日には孫一の刺客による守重暗殺に至る。そして孫一派は信長の後援を得て守重派を攻撃し、同年2月8日には完全に勝利した。 しかし同年6月2日未明に本能寺の変が勃発。孫一は翌3日朝に変報を受け、その夜に出奔して織田信張の和泉国岸和田城に脱出した。この行動は「夜逃」とすら評されたが、翌4日には土橋派の孫一派攻撃が始まっており、危うく難を逃れたことになる。 その後2年ほど史料に現れないが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いに際しては、根来衆・雑賀衆ら紀州勢の多くが織田信雄・徳川家康側と連携して和泉に出兵する中、孫一は羽柴秀吉側で参戦している(8月の秀吉の陣立書に鉄砲頭の一人として「鈴木孫一殿 弐百」とある。これは鉄砲頭9人のうち最高数である)。 そして天正13年(1585年)の秀吉の紀州攻めに際しては、3月25日、太田城への降伏勧告の使者を務めており、役の終結後には息子を秀吉の人質に出した。「鈴木孫一重秀」の事跡として確実性が高いのはここまでである。以後は雑賀に戻った形跡がなく、死ぬまで大坂で過ごしたものと考えられる。 なお、この時人質に出された子が後に豊臣家の鉄砲頭となった「鈴木孫一郎」とも。
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