繁殖 - 功労馬時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 13:58 UTC 版)
「シービークイン」の記事における「繁殖 - 功労馬時代」の解説
繁殖初年度の相手にはテスコボーイが予定されたが種付け権を確保できず、その産駒のトウショウボーイが代用で選ばれた。規則では千明牧場はトウショウボーイとの交配権取得は不可能であったが、当時同馬は種牡馬供用2年目で人気が低く、年若く実績もあるシービークインとの交配は種馬場側としても望ましいものであり、特別に交配が行われた。 翌年誕生した牡駒は「千明牧場を代表する馬」という期待から「ミスターシービー」と命名され、クインと同じく吉永正人を鞍上に、1983年のクラシック三冠、1984年の天皇賞(秋)を制して四冠馬となった。厩務員として母仔二代を担当した佐藤忠雄は、ミスターシービーを評して「澄んだ目、心臓の強さ、内臓全体の丈夫さと根性の座ったところ、何もかもシービークインそのものだったと思う」と語っている。 シービークイン自身は2年目にハードツービートと交配されたが、産駒は出産時のアクシデントで死産となり、以後繁殖能力を失った。その後もソーブレスドやホクトボーイ、シービークロスらと交配されたが、結局ミスターシービー以外には1頭の産駒も残さず、1989年の種付けを最後に繁殖生活からも引退。以後は故郷・千明牧場三里塚分場で功労馬として余生を送った。1999年からは種牡馬を引退したミスターシービーも同場に移動、シービークインの隣に放牧地が設けられ、母子が互いを見える場所で過ごすという、離乳後の競走馬としては珍しい形態となった。 2000年にミスターシービーが蹄葉炎で先に死亡。4年後の2004年1月10日、シービークインも老衰で死亡した。31歳であった。
※この「繁殖 - 功労馬時代」の解説は、「シービークイン」の解説の一部です。
「繁殖 - 功労馬時代」を含む「シービークイン」の記事については、「シービークイン」の概要を参照ください。
- 繁殖 - 功労馬時代のページへのリンク