緒川水野家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:39 UTC 版)
1.貞守 九郎次郎 十郎左衛門 蔵人 長享元年(1487年)5月18日卒、法名・玄室全通 年51 1.賢正(かたまさ) 彦三郎 藤七郎 蔵人 永正11年(1514年)10月3日卒、法名・宝幢賢勝 1.清忠(信政) 重政 蔵人 下野守 永正6(1509年)5月29日卒、法名・一初全妙 1.清重 左近大夫 2.忠政(妙茂) 藤七郎 下野守 右衛門大夫 3.元興(邦重) 藤七郎 家康に仕える 元亀2年(1571年)12月22日卒法名・正念 年25 4.女 (松平信忠の妻) 5.女 (奥平貞勝の妻) 『寛永系図』も同様であるが、「賢正」および「清忠」については「某」とし、法名のみをあげる。ただし「清忠」の没年の記載がない。「士林泝洄」は「貞守」-「為妙・下野守」-「賢勝・蔵人 」-「忠政」とする。 『寛永系図・水野-坤』で忠政の兄弟とされた「藤助」(水野成政)は『寛政譜』に現れず、代わりに「清忠が長男」として左近大夫「清重」という人物が登場する。 1.清重 1.某 三河鷲塚に蟄居 2.治重 三郎九郎 3.清信 左近。某年討死、29歳 4.元定 大學 「清信」の子「水野正重」は『寛永系図』に「清久」として現れる。通称、太郎作もしくは左近。『寛政譜』によれば天文14・1545年生まれ、桶狭間の戦いの後家康に仕えて軍功を示し、慶長7・1602年に1000石を与えられて旗本になるという。実際は信元に仕え、その死後、家康の御家人となったようである。『松平記』にその名をみせる他、この人物の覚書(水野左近覚書。『水野記』巻十五)の内容が『武徳編年集成』や『寛政譜』の記事として用いられている。宗家は嗣子なく絶家となるが分家に紀州藩に仕えた子孫がいる。また「元定」子孫は、その経緯は不明としながらも水野を名乗って江戸旗本となっている(「水野重定」に始まって「水野穠喜」「水野穠久」「水野穠延」らの名前がみえる)。 3.元興(邦重) 1.元教 彦三郎 元教の妻は水野信元の娘で、信元殺害後、元教は知多に蟄居するが、子孫は徳川義直に仕えた後、徳川家宣の右筆、御家人を経て、明和5年(1768年)徳川家治の時代に旗本となっている。
※この「緒川水野家」の解説は、「水野氏」の解説の一部です。
「緒川水野家」を含む「水野氏」の記事については、「水野氏」の概要を参照ください。
- 緒川水野家のページへのリンク