経宗・惟方の失脚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 02:39 UTC 版)
合戦の終息した12月29日、恩賞の除目があり、頼盛が尾張守、重盛が伊予守、宗盛が遠江守、教盛が越中守、経盛が伊賀守にそれぞれ任じられ、平氏一門の知行国は乱の前の5ヶ国から7ヶ国に増加した。同日、二条天皇は美福門院の八条殿に行幸し、清盛が警護した。翌永暦元年(1160年)正月、二条は近衛天皇の皇后だった藤原多子を入内させ、自らの権威の安定につとめた。実権を握った二条親政派の経宗・惟方は、後白河に対する圧迫を強めることになる。正月6日、後白河が八条堀河の藤原顕長邸に御幸して桟敷で八条大路を見物していたところ、堀河にあった材木を外から打ちつけ視界を遮るという嫌がらせを行った。後白河は激怒して清盛に経宗・惟方の捕縛を命じ、2月20日、清盛の郎等である藤原忠清・源為長が二人の身柄を拘束、後白河の眼前に引き据えて拷問にかけた。貴族への拷問は免除されるのが慣例であり、後白河の二人に対する憎しみの深さを現わしている。経宗・惟方の失脚の理由としては、信西殺害の共犯者としての責任を追及されたことによるものと見られる。 2月22日、信西の子息が帰京を許され、入れ替わりに3月11日、経宗が阿波、惟方が長門に配流された。同日、師仲・頼朝・希義(頼朝の同母弟)もそれぞれ配流先に下っていった。6月には信西の首をとった源光保と子の光宗が謀反の疑いで薩摩に配流され、14日、殺害された。信西打倒に関わった者は、後白河院政派・二条親政派を問わず政界から一掃された。
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