経営の激動に翻弄されて
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/04 18:35 UTC 版)
1929年(昭和4年)、兄監督、琴糸路との共演による主演作『怒れる人気男』を最後の主演作として、同年10月いっぱいで河合を退社、同年11月には、兄と離れ、東亜キネマ等持院撮影所に移籍する。1931年(昭和6年)8月の同社解散にともない、その代行会社として同年9月に設立された東活映画社にそのまま在籍、翌1932年(昭和7年)10月の東活解散まで在籍したのち、同社を母体に設立した「日本映画」に移る。 1933年(昭和8年)「日本映画」社は東活が企てていた東京撮影所計画を遂行、「日本映画多摩川撮影所」(現在の角川大映撮影所)を完成したが、わずか3作のみを製作して短命に終わった会社である。そのレアな設立第1作『浅草三重奏』に里見は出演している。同社は翌年に倒産した。 在籍する会社の経営不振につぎつぎに翻弄された里見は、このあとも「新進キネマ」なる会社で『路二つ』に出演、33歳を迎える翌1934年(昭和9年)に市川右太衛門の市川右太衛門プロダクションに招かれ、3作品に出演した。浅草の繁華街の射的屋の美人看板娘を見初め、芸能界引退を条件に結婚を許される。しかし、役者をやめたことを後悔し酒におぼれる日が多く、不遇のうちに1972年(昭和47年)12月27日、満71歳で他界した。
※この「経営の激動に翻弄されて」の解説は、「里見明」の解説の一部です。
「経営の激動に翻弄されて」を含む「里見明」の記事については、「里見明」の概要を参照ください。
- 経営の激動に翻弄されてのページへのリンク