素喜連・木丸津の乱鎮圧
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慕容廆の庶長子として生まれた。成長すると父の征伐に従軍するようになり、やがて鷹揚将軍に任じられた。 309年、西晋の東夷校尉李臻が遼東郡太守龐本に殺害されるという事件が起こると、鮮卑族の素喜連・木丸津は李臻の報復を名目として挙兵し、連年に渡り遼東を侵略して暴行略奪の限りを尽くした。州郡は度々軍を派遣して討伐を試みたものの、いずれも敗れ去ってしまった。李臻の後任となった東夷校尉封釈はこの乱を鎮める為、龐本を処刑して講和を求めたが、素喜連らが侵略を止める事は無かった。 311年12月、慕容翰は慕容廆の下へ進み出て「主君となった人間は、まず国家への忠誠を大義名分として掲げて民衆の心を掴み、遂には大業を成就したものです。素喜連と木丸津は龐本討伐を口先で叫んでいましたが、その実、動乱をこれ幸いと乗じているだけです。その証拠に封釈が龐本を誅殺して講和を求めたにもかかわらず、彼等は略奪を止めておりません。中原が乱れてから久しく、州の軍隊では兵力が足りておらず、遼東はこれだけ荒れきっているのに、救済する者がおりません。今こそ、単于(慕容廆)が彼らの悪行を数え上げてこれを討伐するべきです。そうすれば、晋へ対しては遼東復興を名目と説明できますし、実益としては素喜連・木丸津の兵力を吸収できます。 本朝(晋)には忠義を取り、私利は我らが元へ入る。これこそ王業の基礎となります」と献策を行った。 これを聞いた慕容廆は笑って「まだ子供だと思っていたら、いつの間にかそんな知恵を身につけておったか」と感嘆し、その勧めに従って素喜連・木丸津討伐の兵を挙げた。慕容翰は討伐軍の前鋒となって出撃すると、敵軍を大破して素喜連・木丸津を討ち取った。そしてこの二将の兵力を吸収すると共に、三千家余りを慕容廆の傘下に入れた。
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