素喜連・木丸津を討伐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)
309年、西晋の東夷校尉李臻は側近の王誕や遼東郡太守龐本と共に謀議し、幽州で自立色を鮮明にしていた司空・都督幽州諸軍事王浚の討伐を目論んでいたが、龐本の裏切りにより李臻は殺害され、王誕は慕容廆の下へ亡命した。これにより遼東の辺境に割拠していた鮮卑族の素喜連と木丸津は、龐本を討伐し李臻の報復を行うとの名目で兵を起こし、連年に渡り遼東の諸県を侵略して殺戮と略奪の限りを尽くし、後に龐本が処刑された後も略奪を止める事はなかった。こうした戦乱により現地の農民達はまともに生活する事が出来ず、慕容廆の領内には日を追う毎に多くの民衆が流入するようになった。慕容廆は流民達に備品や食料を支給し、郷里に帰る事を望む者は送り届けてやるなど、彼らの慰撫に努めた。 311年12月、庶長子の慕容翰は慕容廆の下へ進み出て、素喜連・木丸津を討伐し、晋への忠義を示しつつ兵力の吸収を図るよう進言すると、これを聞いた慕容廆は笑って「まだ子供だと思っていたら、いつの間にかそんな知恵を身につけておったか」と感嘆し、その勧めに従った。そして素喜連・木丸津討伐の兵を挙げて東へ進撃すると、慕容翰を討伐軍の前鋒に据えて敵軍を大破し、素喜連・木丸津を討ち取った。こうして両部族の民を尽く降して3千家余りを傘下に引き入れると、彼らを棘城に移住させ、さらに遼東郡を設置してから軍を返した(当時既に洛陽は陥落して懐帝は捕虜となっており、西晋の支配体制は完全に崩壊していたので、改めて設置し直したのだと思われる)。かつて移住してきた民の大半は遼東郡から来ていた者だったので、その治安を回復させた慕容廆は遼東でも大いに慕われるようになった。
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