簡易武装計画(Primitiv-Waffen-Programm)
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「国民突撃銃」の記事における「簡易武装計画(Primitiv-Waffen-Programm)」の解説
1944年末、第二次世界大戦も終盤に差し掛かり、東部戦線及び西部戦線での大敗を繰り返すナチス・ドイツの敗色は濃厚になりつつあった。それでもなお抵抗を続けるべく、1944年9月25日には総統命令の元に国民突撃隊(Volkssturm)が設立され、ドイツ国民の大多数が動員された。しかし、各戦線での敗北と共に装備品の喪失も増大していた。国防軍や武装親衛隊の正規部隊ですら慢性的な装備不足に陥る中、雑多な鹵獲銃や旧式銃をかき集めてでさえ国民突撃隊を武装するために十分な銃器など既に残されていなかった。このため、簡易武装計画(Primitiv-Waffen-Programm)が発動されたのである。この計画では目下の需要を満たすべく、短期間で大量に生産できる武装が要求された。 多くの企業が参加し、7.92x57mmモーゼル弾または7.92x33mm弾を用いる各種簡易小銃が開発された。設計された簡易小銃は国民突撃銃(Volkssturm-Gewehr, VG)あるいは国民銃(Volksgewehr)と総称され、ボルトアクション式小銃と自動小銃が混在していた。1944年11月、総統アドルフ・ヒトラーに対するデモンストレーションが行われた。ヒトラーは各種VGのうち、弾倉を備えない単発式のものの採用を却下すると共に、弾倉容量は10発程度が好ましいとして、7.92x33mm銃ではStG44突撃銃用30連発弾倉を用いるべきではないという見解を述べた。グストロフ製自動小銃については酷評しており、高価で製造コストがStG44と同程度である上、弾薬消費が激しいことなどを批判した。 第三帝国の崩壊を前に、ドイツ全土の通信連絡は寸断され、既に組織だった生産体制を整える事など不可能となっていた。最終的に、各地の大管区指導者たちは地域ごとに独自の武装生産を行わせる事になる。そのため、各VGの最終的な生産数は全く不明だが、実際に使用されたものが少数ながら現存している。
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